「カメラ目線ですか」「いえ自然な様子で」というわけで、あえてテレビカメラを見ないようにしてしゃべる、ところが、テレビカメラのある風景を普通に考えれば、むしろカメラが気になってそちらを見るほうが自然だったりする。とすると今の自分は「自然な様子」と言えるのかどうか。
こうして、そもそも「映される」という非日常が介入した時点で、映された風景は「日常の風景」から遠ざかる。
だから、テレビが真実を映し出すもの、ということをぼくは信じていない。
それでも、形而上的な意味での「真実」(事実の奥に隠れている「真実」)ならば、むしろカメラが介入するからこそすくい出せることがある。
そこに、テレビのおもしろさがある。
事実という「情報」があって、それを「演出」するカメラがある。この構造のなかに、テレビの本質がある。
この本質を「自作自演」と名づけ、1970年代のテレビ番組を通してあぶりだそうとしたのが、いくつかの論文からなる本書だ。
論文集ではあるが、テレビという身近な素材でもあり、内容は親しみやすい。かつ、資料としてつけられた70年代のテレビ番組解説と年表は、それだけでも価値がある。
なぜ1970年代なのか。それは、意図せざる「自作自演」がテレビの場で起こっていた時代と考えられるから、という。本来、テレビの持つ「自作自演」性は、コントロールを超えたところに生じる。コントロールされた自作自演は、楽屋落ちになったり、「やらせ」になったりしかねない。
たとえば第3章でとりあげられている、田原総一郎がディレクションをとった『ドキュメンタリー青春』のなかの一編「バリケードの中のジャズ」(1969年7月18日放送)。ゲバルトを組む学生らのなかで山下洋輔がジャズピアノを演奏する様子をとったこの作品は、しかし、企画の最初からテレビありきだった。学生から提案されたとされたコンサートは、実は、テレビ局が持ちかけた企画だった。
現代のぼくたちは、これを「やらせ」と言うかもしれない。だけど、その向こうで、学生たちの、山下の真実がつかめたとしたら、「やらせ」とは何なのか。
第6章では、大晦日のテレビ放送番組表で「紅白対抗」という言葉が明確に出たのが1975年であったことを発見する。放送していること、見られているということを自ら言明し、そのフレームの中であえて番組を作り出したテレビ。
同じような構造転換が、1970年代、バラエティでも、歌番組でも、ドラマでも見られる。
それにしても。
いま、「やらせ」に対する批判は、感情的にすぎる。「やらせ」の奥を見つめようとせず、ただ表面的な「やらせ」をとりあげて批判しているようにさえ思える。それはあまりに自らに無批判な批判といえないだろうか。
もしかすると、ぼくたち21世紀のテレビ視聴者は、まだ70年代を超えていないのではないか。ふと、そんな思いにとらわれる。
そもそもテレビというのは「自作自演」のメディアであるという自覚。その自覚に立った上で、番組を見て、批判すること。そうした視点を、ぼくたちは持っているだろうか。
昨今の健康番組に流される人々を思い返しても、ぼくたちはもっと、テレビの持つ「自作自演」の構造に意識的になる必要がある。
ぜひ本書を手にとってほしいと思うゆえんである。