アルシーヴって言葉は知らなかった。安藤さんによれば、フーコーが『言葉と物』で見出し、『知の考古学』で発展させた概念だという。もともとは古文書や公文書、あるいはそれらを保管しておく施設を意味していたそうだが、フーコーはそれをあらゆる書物を混在させたまま収蔵するという意味で使用した。
安藤さんは、近代という時代を、あらゆるものが一つになろうとしている時代ととらえる。一元的な価値が貫かれるとともに、それに伴って固有の価値をめぐる紛争が勃発する時代。それが近代だと。
世界の一元化のために大きな役割を果たすのが「翻訳」だ。あらゆる文化、あらゆる言語で書かれた書物を「翻訳」を通して一つのもとに集めようとする力。
もっとも、それはただ一冊の本にまとめようとする力ではない。
むしろそこには多様な書籍が存在する。たとえば図書館は、世界がひとつになった今、ひとつの言語だけを対象に扱うことは許されない。図書館は世界に開かれ、そこには、さまざまな価値観が収蔵されることになる。
すると図書館は、自らが収蔵した多様さによって、それまで自明だと思われていた価値観を疑わざるを得なくなり、分類の秩序が乱される。
しかし、さまざまな価値観が収蔵された「アルシーヴ」は、まさにこの「危機」を経ることによって、新しく構築される。
では、ぼくたちが依拠している日本における、近代のアルシーヴはどのような姿をしているのか。それを探るために安藤さんが注目するのが、ある特権的な2年間だ。
明治43年から44年にかけて。この2年に構築されていったアルシーヴを読み解くことで、日本の近代を探る。それが本書の試みだ。
明治43年から44年にかけて、五人の知性が相次いで、人生を決する代表作を書き上げた。南方熊楠『南方二書』、柳田國男『遠野物語』、折口信夫『言語情調論』、西田幾多郎『善の研究』、鈴木大拙『天界と地獄』(スエンデンボルグ)。
ここに、井筒俊彦を加えて(その代わり別の著書で述べている折口をはずして)、彼らのアルシーヴがどのようなものであったかを考察することを通じて、近代の構造を明らかにしようとする。
彼らが日本だけではなく、海外と出会い、そのアルシーヴを築いたことは偶然ではない。
南方熊楠は自らの「性」への関心を、アメリカ生活の間に出会った「近代菌学の父」アントン・ド・バリーの著書を通じて昇華させ、新しい生命観を切り拓く。
柳田國男はパレスティナでの経験を通じて、「常民」という鍵概念を磨き、その労働が積み重なった物語としての風景を見出す。
鈴木大拙は二十代後半からの十数年をアメリカで過ごして帰国して後、『天界と地獄』を出版し、「霊性」にアプローチし「無限」の世界としての宗教観を磨く。
西田幾多郎の『善の研究』は、漱石が小説で行ったのと同じ、新しい日本語の確立をめざしたものだった。新しい概念の確立と、新しい日本語の確立が並行していたのだ。その上で彼は、主体と客体をつなぐものを、動詞が生まれ出る「場所」として見出す。
そして、イスラム革命下のイランから帰国した井筒俊彦。
こうして彼らから生まれた近代のアルシーヴを、グローバリズムの時代に生きるぼくたちはどのように再構築するか。自身に対してそのように問いかける。
ひとつ思うのは、ぼくたちのうちには、外からのアルシーヴの豊富さに比べ、内なるアルシーヴへの理解があまりに弱いのではないかということだ。
ぼくたちは、葛藤から新たなるアルシーヴを構築できるほどの、内なるものを持っていない、そこまでの準備ができていないのではないか。