第三の消費文化論―モダンでもポストモダンでもなく

第三の消費文化論―モダンでもポストモダンでもなく (叢書・現代社会のフロンティア) ポストモダン消費論、というのがあった。

1980年代から盛んに言われるようになった。当時日本でもブームになった記号論など、ポストモダン思想の見方を用いて消費を分析する見方だ。

間々田さんは、ポストモダン的文化の内容について、その特徴を次の3点にまとめている。

  1. 脱合理主義(合理主義的価値観を嫌い、非効率的・非合理的な行為に意味を見出すようになった)
  2. 脱構造化(人々を拘束していた価値観や規範が流動的になり、境界もあいまいになった)
  3. シミュラークルの優越化(創造性やオリジナリティを重視した近代の価値観に反し、模倣や複製化が行われるようになった)

で、80年代以降、消費文化もまた、確かにそうした様相を見せていた。奇妙なネーミングやイメージ広告、過剰な笑いやナンセンスに見られる脱合理的な光景。穴のあいた服やスカートの下のジーンズなどにみられる脱構造化。そしてパロディやシミュラークルの氾濫。
しかし、それがすべてか、というとそうじゃない。仮に「モダン消費」をこの「ポストモダン消費」の逆と考えるなら、パソコンやファーストフード、サプリメントに見られる合理主義はいまだ健在だし、高級ブランドの権威の高まりは脱構造化とは別の方向だ。そして、シミュラークルの氾濫する中で、消費者は「本物志向」をむしろ高めているようでもある。なにもかもをポストモダン消費で説明するのは無理がある、というのが、間々田さんの立場だ。

では、今の消費文化はどこに向っているのか。

それを述べる前に、間々田さんはいくつかの消費現象を分析する。

ひとつはリッツァのマクドナルド化論。効率性、計算可能性、予測可能性、制御という四つの次元からなるファーストフード的諸原理が世界のあらゆるところで優勢になりつつあるとする指摘だ。これは、医療や教育、サービスなどこれまで合理化が進んでいなかった分野でモダン化が進んでいることを指摘したものだと位置づける。

次にグローバル化の影響だ。これについては画一化(アメリカ化?)か多様化(クレオール言語のように)かという視点がある。リッツァのglocalizationとgrobalization(企業がgrowthのために拡張すること)という指摘が参考になる。前者はポストモダン的、後者はモダン的な現象だ。

消費の面をみれば、確かにパソコンや家電など、画一化(世界標準)が進んでいる側面もある。しかし一方で、現地化されたり、ハイブリッド化されたり、時には画一化がノスタルジーをもたらし、ローカル消費文化が再活性化されることもある。

一面的にはとらえられない。

そして、消費記号論。これについては、消費の新しい側面を照らし出す効果はあったものの、動態をとらえることに失敗したと批判している。

で、われわれは今の消費動態を、脱物質主義としてとらえてはどうか、というのが、間々田さんの提案だ。脱物質主義化論は、機能的価値から文化的価値へという「価値の再設定」が生じていると考えているところで消費記号論などのポストモダン消費論と共通している。しかし、消費の動態について、ポストモダン消費論がモノ消費の増大を想定しているのに対して、脱物質主義化論は、モノの消費が安定化すると想定する。

で、次には、物質文化の質を高め、自然とも良好な関係を築く「真物質主義」に向うのではないか、というのが見立てだ。

ポストモダン的な見方がちょっと恥ずかしくなりつつある現在において、新しい見方を提案する書といえる。

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