そう、現代は「子どもが生まれにくくなった」時代だ。少子化対策がとられてもいる。しかしそれらがどれほど実行力を持つか。
少子化を母親の、あるいは家族の問題としてとらえる傾向がある限り、子どもが生まれにくくなった真相は見えてこない。
本田和子さんは言う。少子化とは近代化の病だと。それが「なぜ」への答えだ。
第一章で本田さんは、家制度を分析する。
かつて子どもは家を継ぐものとして欠かせなかった。「個人」という概念が導入され、家が希薄化する明治以降、子どもは「国の宝」と位置づけられるようになり、再び存在意義を確かなものとする。
しかし第二次大戦後、産み育てる行為は私物化される。
本来、子育ては乳母がいたり名付け親がいたりと、社会の営みだったはず。それが今ではもっぱら母親の役割とされるようになった。その結果、経済性の論理が幅をきかせるようにもなり、損得で子どもを持つことが語られる時代になってしまった。
続く二章から四章で、本田さんは親子関係の変化(扶養されずとも育つコンビニ時代)、都市空間の変化(子どもの場の喪失と囲い込み)、メディアツールの変化(個のツールの登場と時間の編集)といった視点から、子どもが置かれた位置の変化を語る。
第五章は「恐ろしい子ども」についての考察だ。テレビ的・ワイドショー的歪曲が「恐ろしい子どもイメージ」を増殖しているという本田さんの指摘は、まったく正しい。
ぼくたちは今、自分の周りの世間よりも、テレビを通した社会状況のほうにリアリティを感じる、そんな時代にいる。
近代化の病とは、個人主義、自由主義をベースに、経済的論理で子育てが語られる風潮に他ならない。「なぜ子どもが生まれにくくなったのか」と問われれば、日本社会が近代化路線を歩んできた副作用とでも言うしかない。
では解決策はあるのだろうか。
本田さんは、種の保存としての子育ての価値を見つめなおし、子育てを「個人的な営為」から「公的な営為」に位置づけなおすべきだと言う。
種の保存のため、という大義はちょっと通りづらいかなあと思うけど、方向性としてはその通りだろう。
子育てを個人的な営為でなくすこと。
難しい課題だけれど、おそらく、そこにしか道はない。だから少子化対策は、決して「子育て母子(家族)」を支援するものであってはいけない。社会そのものの変革が必要とされる。
少子化対策に、産まない選択をした人に配慮していないなんて批判が出るうちは、社会はまだまだ。子どもは社会の宝だ。子育てを支援することは、子どもを産まない選択をした人も含めて、自分たちの共同体を未来につなげていくために欠かせない、社会の基盤への投資なのだ。そういう思いを、誰もが共有できること。
道は遠い。近代化で培われた日本人の価値観をひっくり返さなくてはいけないんだからね。
間に合うかどうかもわからない。
現代は、近代化の病の中にいることを多くの人が共有してほしい。そのためにも、お薦めしたい一冊である。