ネットはときに、集団行動の契機となる。ネットイナゴと呼ばれたり、フラッシュモブと呼ばれたり、呼び方はさまざま。
ブログにコメントが殺到する「炎上」も、ある団体への支援に賛同者が殺到するのも、集団行動。それは「暴走」とみられる場合もあれば、「可能性」と感じられる場合もある。
荻上チキさんは、ネットを介した集団行動を、特定の立場から価値付けすることはしない。それが起こる背景を、あるいはその影響を考えるための素材を、豊富な事例とともに提供する。
その素材とは、ネットがもたらす過剰性やハイパーリアリティ、沈黙のらせんなどの概念や理論。
そうした概念や理論は、ぼくたちに新しい視野を与えてくれる。
それはたとえばこういうことだ。
海辺の町にいるとき、地震速報が流れたとする。そんなとき、何が求められるだろう。
ひとつは、地震が津波につながるという知識。これは状況を正しく把握するために欠かせない。
避難所がどこにあるのかという知識も、これから自分がとるべき行動を決定するのに必要だろう。
同時にぼくたちは、人間には「自分だけは大丈夫」と考える癖(「正常化の偏見」と呼ぶ)があることも知っておくといい。
この最後の知識は、それまでふたつの知識とは少し種類が違う。というのは、知識を扱おうとしている自分自身がどういう存在であるかについての知識だからだ。メタ知識とでもいう知識。
メタ知識は、ぼくたちの視野を広げ、ぼくたちを助けてくれる。
実はぼくは、文章とは、必ず誤読されるっていう前提を持っている。これまでおつきあいいただいた多くの読者から教えられたことだけれど、文章というのは、どれだけ気をつけていても、自分が思ってもみなかった読まれ方をし、相手を傷つけることがある。
それを少しでも防ぐために、ぼくは、一度書いた文章を、違う目線で読み返す。さまざまな立場の可能性を考えて、何度も、何度も。
同じような機能を持った掲示板はどうだろうと考えたことがある。
書き込んだ本人に、24時間後に、公開承認依頼をする掲示板だ。
ほら、夜書いた恋文は朝読み返してから出せっていう話がある。のめりこみすぎちゃって、恥ずかしい内容の場合が多いから。
掲示板に返信するときも、それと似たような心理状況にある。目の前の言葉や状況にとらわれすぎて、書き込んじゃう可能性がある。
だから、24時間後の自分に、その内容で公開していいかどうか、確認してもらうんだ。
考えてみればこれは、24時間後の自分は、「今の自分」がおかれた状況を、より俯瞰的な視点から眺めて判断できるのではないかって期待しているんだね。
24時間後の自分にメタ知識を期待し、アーキテクチュアによってコミュニケーションの信頼性を確保しようとする考え方だっていえる。
もっとも、そんな掲示板は存在しない(たぶん)。掲示板のリアルタイム性を失わせてしまうなど、欠点もあるしね。
だから今は、ぼくたちが自身のうちでメタ知識(教養=リテラシー)を持つことで、「可能性」を引き出すしかない。法律で縛るなど、制度の側に主導されないように。
ネットの可能性は、ぼくたちに託されている。
ボクは「可能性」と言う言葉を、つい肯定的に捉えてしまう。
「若者の持つ可能性」とか「未来への可能性」などなど。
可能性という曖昧な言葉に期待して、今ある問題を、先送りにしているボク。
小橋さんの『ネットの可能性は、ぼくたちに託されている。』
の言葉に、己の「ふがいなさ」を突きつけられた想いです。
明日は、もう少し真面目に生きようかな。