世間学については、以前にも『世間学への招待』などで触れて、その着想を新鮮に感じていた。こちらも入門書としておもしろく、お薦めだ。
それで。
ぼく自身は「世間」が日本を読み解くために有効な枠組みであると感じる一方で、現代においてそれは、どちらかというと退潮しつつあるものと考えていた。世間を形作っている(とぼくが考えていた)コミュニティが薄れているからだ。
しかし。
佐藤さんはむしろ、世間は暴走しているという。
イラク人質事件でのバッシング、学校などにおけるいじめ、「空気を読む」ことへの脅迫感さえ伴うほどの必要性。
それらはすべて「世間」を背景にしてこそ読み解けるものと佐藤さんは言う。そして世間という視点からみた「オキテ」を、いじめや格差、恋愛、宗教、ケータイ等、さまざまな事象で読み解き、暴走の様相を描き出す。
そうか。世間って、イメージが形作るものなんだ。
それが、本書を通してぼくが発見し、ワクワクさせられたことだった。
実体的コミュニティが弱体化する一方で、イメージとしての「世間」は暴走している。それが、ぼくの思いと「暴走」をつなぐ思考の橋だった。
それにしてもなぜ、世間は暴走し始めたのだろう。
少し時代を遡る。
その昔、世の中に「子ども」はいなかった。人々が言葉だけでコミュニケーションしていた頃、言葉でコミュニケーションできない子どもは、動物と同じだった。その後6歳から8歳くらいで子どもはコミュニケーション能力を身につける。すると動物は大人になった。だから、子どもはいなかった。
いわゆる「子ども」が生まれたのは、文字が発明されてからのこと。言葉がしゃべれるようになった後も、文字を身につける学びの期間が必要とされるようになったのだ。その間、子どもたちは子どもとして、文字によって成り立つ大人社会に入る準備をするように求められる。
それから映像の時代がきた。
それまで文字が読めないゆえに世間から遮断されていた子どもは、映像を通じて世間を知ることになる。さらに消費社会化は、子どもも消費主体にする。
そうして子どもは、プチ大人となり、プチ世間を築くことになった。
映像の後、ネットの時代が来た。それは、子どもたちに何をもたらしたろう?
いま、子どもたちはプチ世間のなかで、ネットワークを介した、より濃いつながりを持つようになっている。
おそらく、この濃さが問題なのだ。濃いネットワークは、閉鎖性を生む。それは熱い関係であり、それゆえに、毒も強い。
並行して、いわゆる自己責任の強調があった。
ぼくたちは責任範囲を明確にするため、外部と自己を切り離すようになった。その結果は、プチ世間とプチ世間の風通しを悪くする。閉鎖された世界にもたらされる外部の風が弱まり、視点の多様性が失われ、人の首を絞め始める。
ふと、『<いじめ学>の時代』で内藤さんが、いじめの原因を、学級の閉鎖性に見ていたことを思い出した。
では、世間の暴走を止めるにはどうすれば良いか。
世間学的エポケーだと、佐藤さんは言う。ぼくたちはふだん世間にとらわれている。だから、ふだん当たり前だと思っていることを、いったんカッコに入れる。自明だと思っていたことを、疑ってみる。
その向こうに、新しい世界の見方があり、人生の処し方がある。
狭い世間の向こうに広がっている、たくさんの世間を知ること。
自分の世間を形作っている「あたりまえ」を疑うこと。
それは、情報化社会に生きる上での心構えでもある。