3つの縁で紡ぐクリエイターの物語

 村上信夫アナウンサーがパーソナリティーを務められる「縁たびゅう」という番組にお呼ばれすることになった。

 NHKエグゼクティブアナウンサーを経て、現在はやさしい言葉の種まきを全国でされている村上さん。「縁たびゅう」とはまた、「人たらし」と冗談で言われるほど人との付き合いを大切にされる、村上さんらしい番組だ。

 で、出演に先立って、「3つのご縁」を準備してきてほしいということである。

 ぼく自身は基本的に、人の思いをくみ取って形にすることを仕事にしてきた、と思っている。そういう意味では、縁無くしては人生成り立たない。(これまでの肩書的経験は「これまでの歩み」にまとめている。)
 その中から、3つに絞らなくてはならない。

 これはすごく大変。誰かとの縁の方が誰かとの縁より大切、なんてことはない。ひとつひとつのご縁が網のようにあざなわれて、今がある。
 それでも、3つに絞らなくてはならない。

 悩んだ末に、今の自分を構成している要素、それぞれを代表するご縁を紹介することにした。
 今の自分を構成している要素。それは、「ものかき」と「インターネット」と「まちづくり」である。

詩作に励んだ日々

 というか、そもそものルーツは「ものかき」にある。

 その基盤を形作ってくれたのは、小学校時代の恩師である「荻野幸雄」先生だ。

 小学校を卒業してからのお付き合いは、無い。ぼくが大学生の頃、亡くなられたと聞いて、後日、友人とご自宅までご挨拶に行ったきりである。

 荻野幸雄先生は、小学4年生から5年生、6年生と担任だった。45人1クラスの田舎の学校である。今振り返ると、担任を3年間も持ち上がるなんて珍しい。
 もしかすると、作文の授業などのモデルクラスになっていたのではと思ったりもする。

 そう、荻野先生は児童に作文を書くことを推奨した。あるいは、試作に励むことを勧めた。
 1週間ごとにだったか、担当が決まっていて、後ろの黒板に自作の詩を書いて発表していた記憶がある。

 材木屋の娘だった子が「おがくずの匂いが好き」だったか、そのような表現をしていて、それを取り上げて、「匂いが好き」という表現の向こうに「父親が好き」という想いがくみとれると褒めていらした。
 そんな先生である。

 残念ながら、ぼくが書いた詩の記憶はない。

 作文では、かすかに覚えているのは、畑を手伝ったことを書いた文章である。
 指を使って畝に穴をあけて野菜の種を蒔く。深く穴をあけすぎると「それでは芽が出ない」と父に注意され、浅くしてみると「鳥が食べる」と注意される、そんなことを書いた。
 その具体性がおかしみがあってすばらしいと、褒めてもらった記憶だ。

自分で書いて、忘れよう

 中学生になって、ぼくは自分で小説を書くようになった。

 直接的なきかっけは、おこづかいが少なくて本が買えなかったあの頃、ふと「自分で書いて、内容を忘れたころに読めばいいじゃん」と思い立ったことだった。
 以来、ぼくは小説を書いている。あるいは、コラムや雑文と言われるものを。

 中学生時代は、自作の小説を英訳してペンパルに送ってみたり、高校生時代は、「憧憬譚(しょうけいたん)」という同人誌を出版したりした。
 出版したのは高校3年生の時。今見ると、近所の店の広告も営業してきており、写植で打ってもらった(当時の同人は手書きが基本である)、力の入ったものだ。

 同人誌活動は大学になってからも続けた。「きゃべつ」という同人は、全国に70名くらいの同人を抱えるまで成長した(確か)。
 その頃の同人の一人は、大学教授になって、学術書など出版している。また別の一人は、出版社に就職し、ノウハウ本などを書いている。

 その一人とは、「あの頃のそれぞれが、それぞれに本を出すとはね」と言い合ったことがある。
 小学生時代の経験が、今につながっているのは間違いないところだ。

ホームページなら同人誌簡単じゃん?

 就職の際に選んだ職業は、コピーライターだった。「ものかき」の延長である。

 1993年か94年かの頃。当時愛読していた雑誌「SFマガジン」で、インターネットのことが書かれていた。
 ピンときた。

 これは同人誌の代わりになる。
 その頃はようやくワープロやパソコンが出始めていたので、手書きこそなくなったけれど、同人誌を出版するには、自分で原稿を打ち出して、印刷所にもっていって、さらに発送するという手間がかかる。
 ホームページならその手間がかからない!

 そんなわけで、ぼくはインターネットの世界に入っていった。

 やがて勤めていた広告会社にインターネット部門を作って、当時は光ファイバーもなかったので、近所で仲良くさせていただいていた技術研究所さんに協力してもらって、パラボラ無線でインターネット接続環境を作ったりした。

 広告クライアントに、ホームページ営業をかけたりしていた。「〇〇社がホームページ開設」が新聞記事になる、そんな時代だった。

アクセス向上委員会の人

 その頃出会ったのが、アクセス向上委員会というメーリングリストを運営されていた橋本大也さんである。
 当時はまだ20代だったのではないか。そんな頃から、ホームページのアクセス向上に関する書籍を出版していた天才である。

 ぼくもまた、1998年に『今日の雑学+(プラス)』というメールマガジンを創刊し、業界のリーダー的な存在と見ていただいていた。
 自分で言うのもなんだが、雑誌等のインタビュー等も多く受け、そのように見出しを付けていただいていたので、客観的にもそういう存在であったとさせていただく。

 2000年頃だったか、橋本さんからチャットツール「skype」で会社を作らないかという相談を受けた。否はない。
 当時ぼくは京都に住んでいたのだが、東京まで出かけて、渋谷で朝まで語り明かした。そのようにして設立したのが、「データセクション株式会社」だった。

 日本語の海を狩猟し、自らの思いと近い文章を探してくる。キーワードで検索するのではなく、文意が似た文章を探してきて発想を拡げてくれる。そんなサービスを開発し、提供した。

 残念ながらぼくは2005年頃に同社を離れ、田舎での活動に専念することになった。同社はその後、上場を果たし、AI分野の先端企業として輝いている。
 そこまでもっていってくれた橋本さん(及びこの写真に写っている創業メンバー)には感謝と尊敬しかない。

 橋本さんとは、その後も付き合いが続いている。彼は今、デジタルハリウッド大学教授として、AI活用分野のトップパーソンとしてベストセラーも輩出し、活躍している。

 昨年、ぼくが市長選に挑戦した時には、一緒に活動をボランティアで手伝ってくれた。

 今もあの頃の熱かったインターネット業界にぼくをつないでくれる、貴い存在である。

今、農村がおもしろい!

 データセクションを創業した頃、ぼくは田舎にUターンした。

 もともと田舎で子育てしたいと思っていた。1998年に生まれた子どもが、物心つくまでに田舎に帰るのが目標である。
 当時主としていた執筆業の仕事が、編集者とはネットでもやりとりできる環境にあったので、思い切ったのである。

 そして出会ったのが、婦木克則氏だ。

 婦木さんは農家である。牧畜から養鶏、米、麦、野菜、味噌、しょうゆと複合的に経営をされている、つまりは「百姓」の典型である。
 当時、「今、農村がおもしろい!」と車体にステッカーを張って、農道を走られていた。田舎なんて、とつい自分たちを卑下する田舎の人たちへのメッセージだったと思う。

 そんな婦木さんと最初に出会ったのは、ぼくが田舎に引っ越して間もなくである。

 稲につくしずくの話、時間によって変わる霧の発生源の話をしたのを覚えている。
 そうした日常にこそ、農村の魅力がある、そんな話だった。

 おそらくは、インターネットで名前を知られている生意気な若造に、ネットではない本当の田舎の価値を教えてやらねばと思って来られたのではなかったか。

 ぼくが田舎に帰りたいと思っていた理由も、そうした田舎の細部の美しさにあった。
 だから、話があった。

おばあちゃんの里

 さらに、おばあちゃんに象徴される食文化への理解も共通していた。

 やがてぼくは仲間と共に田舎の日常をブログ的(ブログはまだ世になかったけれど)に紹介するホームページを立ち上げ、その中で「田舎のおばあちゃんメール」というサービスを開始した。
 ニックネームを登録しておけば、あたかも田舎のおばあちゃんのようにメールを寄こしてくれるサービスである。

 また、以前からまちおこしをされていた婦木さんたちに誘われて、近々できるという「道の駅」はどのような施設であるべきか、勝手連で夜な夜な議論した。

 道の駅は、のちに「丹波おばあちゃんの里」と名づけられ(命名は婦木さん)、その時のメンバーが経営陣として経営に関わることになる。

 婦木さんはその後、農家民宿や加工業にも手を出され、大阪に直販ショップも運営されている。しかし家族経営的な規模はそのまま。
 今も、農家の手本であり続けている。

すべてはクリエイティブ

 考えてみれば、ぼくがまちづくりに関わるようになった背景には、ベンチャーがもてはやされるインターネット業界へのアンチテーゼとして、地域活性化に役立てたい、という想いがあった。

 そのインターネットに出会ったのは、同人誌からの延長。そしてぼくのものかきとしての基礎を作ってくれた小学校時代。

 基盤にあるのは、「クリエイティブでありたい」という想いである。何か新しいことを、世の中に提示したい。相手がびっくりするような手を打ちたい。

 今、ぼくは丹波市観光協会の事務局長として、丹波市の観光振興に関わっている。その基盤にあるのも、驚きを提供したい、という思いである。

 3人との縁を通して、自らのルーツを振り返ってみた。

 冒頭に紹介したが、ぼくの来歴は「これまでの歩み」に細かく記している。今回、その多くをばっさり削った。取り上げる人によっては、また違うストーリーが立ち上がってくるだろう。
 ただ、クリエイティブでありたい、という基本は、どのストーリーでも共通するに違いない。

 なお、この文章は、村上さんから「プロフィールもこれまでにないものをください」とリクエストされて書いた。

 村上さんはインタビューのプロである。きっとここで書いていない何かを引き出してくれる。そんな楽しみをもって、収録日を待っている。「村上信夫の縁たびゅうーシャナナTV」をお楽しみに。

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