それはたとえば、介護保険制度を導入し、介護士などによるケアができる体制を整えることを意味している。つまり社会化とは、介護や育児といった、これまでは家庭内で担われてきた役割を家族から切り離し、社会としてめんどうをみようということだ。
同じようなことを、専門用語で「脱埋め込み」と言う。
いま、日本で進みつつある現象は、家族の機能の「脱埋め込み」だ。介護のように政府による脱埋め込みもあれば、外食やハウスクリーニング業のように、市場による脱埋め込みもある。
その結果、日本における家族は「縮小」している。
機能だけではなく、構成員としても、少子化などの影響で家族構成は縮小しつつある。従来のように単純に家族に任せることが不可能になってもいるのも確かだ。
その分を、社会が担う必要が出てくる。
ところで、ここでいう「社会」とは何だろう。
二つの要素がある。ひとつは市場であり、ひとつは政府だ。介護にしても、政府が担う部分と企業等に任せられる部分がある。
近年の流れとして政府は小さくする方向にあるから、市場に任せる部分が増えることは想像に難くない。
では、家族はどこまで「縮小」するのだろう。本書が問いかけるのはそこだ。
そのために筒井さんは、データ(それこそ先日『日本人の意識と行動―日本版総合的社会調査JGSSによる分析』で紹介したJGSSを含め)に基づく実証と、理論を行き来しながら、家族のゆくえを問いかける。
思考実験をする。
すべての機能を「家族」から脱埋め込みし、家族を解体するところまでいくだろうか。
ここがおもしろいところだけれど、仮にそれができれば、理論的には公平な社会につながるという。
それというのも、家族は選べない。そして近年問題になっている「格差の再生産」問題の根っこは、家族が選べないところにある。豊かな家庭で生まれた子どもは豊かな資源を与えられ、将来の結果も豊かなものに導かれる。
仮に子育てを家族から脱埋め込みすれば、そうした問題が解決され、社会は公平になる。
なるほど。
ただ、もちろん、現実的にはそうはいかない。
生まれたばかりの子どもを家族から切り離すなんて、できないよね。
そうした設定のSFはいくつかあった記憶があるけれど、いずれも管理社会を描いたディストピア的な作品だった。子育てを家族から切り離すなんて、現実的ではない。
それからもうひとつ、家族づくりのきっかけとなる出会いも、不公平だ。学校や職場での出会いが多い現在、出会いはその人の社会的な位置に左右される。
かといって、出会いを公平にするため、住民台帳などから無作為に選ばれて結婚させられるなんて、やはりディストピアだよね。
地方での出会いの不公平を解消するため、自治体の政策として「カップリングパーティ」が催されることもあるが、政府としてできるのはせいぜいそこまでだ。
家族はどうしても残るだろう。
では、家族が担う最後のもっとも重要な機能は何か。
家族は親密性にもとづくつながりだ。そこには、親密財と呼ばれるものがある。私有財でもなく、公共財でもない。この財産こそ、家族が担い、生み出すもっとも重要なものだという。
具体的には、メンタル面のサポートがある。他者の心を癒すことは、親密な関係によってしか得られない。
現状を考えれば、家族はセーフティ・ネットとしても機能している。これを福祉などで置き換えることはある程度できるだろう。しかしそれでも、メンタル面のサポートまで、第三者が担うことはできない。
家族は縮小している。しかし、その行方を語る上で、親密性に埋め込まれたメンタル面のサポートを無視することはできない。
社会は、親密性によるセクターなしでは、構成しえないのだ。