徹底調査。223世帯に対して、自分の家のおせち料理とクリスマス料理をレポートしてもらう、しかも嘘をつけないように、写真とともに。
そこから見えたのは「破滅する日本の食卓」だと、岩村暢子さんは言う。
着眼点の良い調査だ。どちらも家族で過ごすものという通念があるふたつのイベントを比較する。同じような行事であるはずなのに、一方はエンタテイメントと化したクリスマス、一方は失われる伝統となったお正月。
もっとも、これはたしかに怖い本である。
何が怖いかって、ぼくにとっては、自分にもその可能性はある、という点だった。わが家では、ここに描かれた食卓とはまったく違う風景が展開されている(と信じている)が、それでもやはり、ここに描かれたような食卓になる可能性は理解することができる。
そのことが、怖い。
ぼくにとって理解できるというのは、社会の流れとしてありうると実感できるということだ。つまり、ここに描かれている風景は、仮にこれがレアケースだったとしても、その根底にある精神は、同時代に生きる誰もが持っていると確信せざるをえない。
そのことが、怖い。
一方、本書に反感を覚える人も多いはずだ。日本の食卓はどうあるべきかというレベルで読み込んでしまうと、不快をもよおす本でもあるから。
そういうわけで、取り扱いは注意。
岩村さんの前著『変わる家族 変わる食卓』でもそうなのだけれど、食のあり方に対する批判として読むのではなく、その背景にまで視線を伸ばして読み込んでほしい。
本書に述べられた事例を通して、日本の家族がどこに向っているかを考えてほしいと思う。問わなくてはいけないのは、おせちの伝統が失われることの可否ではなく、なぜ失われつつあるのかという構造上の、時代心理の問題だ。
個々の事例は紹介しない。
食卓が「破滅」する背景には、徹底した「個」の実利追及がある。「自分が楽しいこと」はどれだけ時間がかかってもやるが、「自分がしんどいこと」にはできるだけ関わらないでいようとする。
この底流は、近代の、そして消費社会の病として、納得できる。おそらく、この傾向を止めることはもうできない(だけどそのままでいいとも思えない)。
それからもうひとつ。
前著で岩村さんは、言っていることとやっていることが違うという、主婦に見られる特徴を取り出していた。
本書でも岩村さんは、「子どもに日本の心を伝えることはだいじです」と書きながら、おせち料理は作らない主婦(お正月の朝をパンとシリアルで済ませたり)の存在に首をかしげている。そんな人に限って、「来年こそはがんばるぞ」などとあっけらかんと宣言している。
おそらく、現代の人々には、「いつかきっと」という青い鳥の存在への確たる思いと、「今はめんどう」という現時点での実利が、矛盾なく混在している。「いつかきっと」のために今を努力することはしない。「いつかきっと」はどこかから降ってくる存在だ。
これはなんだろう、と思うのだ。(そういえばぼくは二十数年前、吉本ばななの小説の中に、この「ふっと降りてくる」存在をかぎとらなかったか?)
確かなことがひとつ。
「いつかきっと」と思っているうちに、伝承は失われている。
ボクの職場での話しですが・・・・。
「いつかきっと(実行するぞ)」と同じくらい怖いモノに
「昨日はコレで問題なかった」があると思います。
危険回避に関しての考察ですが、本質は同じかと・・・・。