多様性の時代を生きるということ~そのパラドクスを乗り越えて~

 このところ「多様性」をめぐっての議論が盛り上がって(?)いますね。

 安倍首相が10月4日の第200回国会における所信表明で「新しい時代の日本に求められるのは、多様性であります」とその重要性に触れたこと。
 あるいはラグビー日本代表の快進撃、多国籍のメンバーからなるチームの多様性が強さを支えているという視点。

 このブログでも、「生物進化も、地域づくりも、多様性がキモになる」「丹波市を寛容性のあるまち、多様性のまちに」など、なんどか、「多様性(と寛容性)」の重要性に触れてきました。

多様性のパラドクス

 でも多様性については、しっくりこないと感じる人もいらっしゃるようです。反対だからではなく、うるさく感じるっていうか。

 どういうことでしょうか。

 多様性っていうのは、状態を示す結果論であって、こうしようと呼びかける価値観じゃないんです。多様性を語る時どこか居心地が悪いのは、きっとそういうところが背景にあると感じています。

 もうひとつ。

 実はこれは哲学的にも大問題なのですが、多様性のパラドクス(逆説)とでも言える問題があります。

 多様性を認めるっていうことは、「多様性なんてくそくらえ」という考え方もまた、受け容れるってことです。
 このパラドクス(逆説)も、「多様性は重要」っていう言説へのうさんくささを生んでいるのではないでしょうか。

 そういう意味では、今後広げていくためには、多様性そのものではなく、多様性の基盤となる「他者への寛容性」というところで伝えていかなくてはいけないようにも考えています。

 とはいえ、他者に寛容になるということは、不寛容な人にも寛容であらねばならないというパラドクスは残ります。どうすればいいのでしょうね?

哲学者ローティを手がかりに

 多様性をたいせつにするなら多様性を否定する考え方も受容しなくてはいけないというパラドクスを考えるとき、手がかりとなるのはアメリカの哲学者ローティの考え方です。

 ちなみにぼくがローティと多様性を結びつけて考えるヒントをくれたのは、東浩紀『一般意思2.0』でした(わかりやすく面白い論考、おススメです)。

 ローティといえば自由論です。
 自由についても多様性や寛容性と同じパラドクスがありますよね。自由を重んじるなら他人の自由を奪う自由も認める必要がある、という。

 そんなところからローティは考えを深めていきました。

 さて。ぼくなりに理解したところを書きます。

 ぼくたちは誰でも、自分を価値づける(正当化する)言葉を持っています。あるいは探そうとしています。
 ローティは、この言葉のことを、「終局の語彙(ファイナル・ヴォキャブラリー)」と名付けています。まあ、譲れない信念みたいなものだと考えてみましょう。

 ところで、多様性のある世界に生きようとする人は、自分の「終局の語彙」を疑います。だって自分の「終極の語彙」が絶対だとすれば、他者のそれを否定しなくてはいけませんから。
 自分を絶対とするのではなく、他者による「終局の語彙」もたいせつに思い、そこから感銘を受けて自分を変化させていく。多様性を生きるということはそういうことです。

 けっきょくのところ、自分は何かを信じて「終局の語彙」を持っているけれど、それは偶然そのように信じているだけに過ぎない。世界には自分と同じように、自分とは違う「終局の語彙」を持っている人たちがいる。

 ローティはこんなちょっと冷めた考え方に至った人のことを「リベラル・アイロニスト」と呼んでいます。

多様性のある世界を生きるということ

 ここからがおもしろいんです。ちょっと脱線もしますが、紹介を続けます。

 リベラル・アイロニストは、「終局の語彙」が偶然のものであるという状況は、相手にとっても同じと気づいています。

 そうするとどうなるでしょう。互いに分かり合うことは無理と考えるしかない。分かり合おうとすると自分の思いを相手に押し付けることになるから。

 だから、分かり合おうという思いを公の場に出すのは控えなくてはいけない。分かり合おうとする欲求は、私的なところにとどめなくてはいけない。

 分かりますかね。普通、私的世界は自分勝手なことをして、公的なところでは普遍的価値に従おうとしますよね。
 ローティはこれを逆転させちゃってるんです。普遍的価値を目指そうとするのは私的欲求なんだって。

 ぼくは、これは相当におもしろいし、重要な考え方だと思いました。

 だって、たとえばネット炎上。その論法は「こうすべき」という絶対的価値観を公の場に出し、それに従えとする圧力じゃないでしょうか? 自分が信じる「正義」を相手に押し付ける種類の。
 さいきん、この種の「正義」を前面にした圧力が目立つと思いませんか?

 自分の「正義」は誤っている可能性があると自覚することから(リベラル・アイロニストになることから)、炎上のネタは消えていくように思います。

 こうすべきという普遍的な価値観は無い。あなたが信じる「正義」は間違っている可能性が常にある。
 みんながそれを自覚するところから、新しい時代のコミュニケーション像が生まれる。

熟議の民主主義へ

 とはいえ、そんな世界において、ぼくたちはどのようにして他者と接すればいいのでしょう。

 ここから先は、たとえばハーバーマスといった、ローティと同じアメリカのプラグマティズム思想の流れを汲む人の考え方も参考にします。

 ローティは、相手も自分と同じように苦しみ悩んでいる人だと想像することの重要性を説きます。
 会話の中では、いつだって自分の発言に対して異議申し立てをされる可能性がある。それが前提。だからその可能性を知りつつ、相手も苦しみながら会話していると想像する。こうして互いに想像力を働かせながらコミュニケーションをとる。

 そんなとき、自分から相手に伝えられることは何でしょうか。
 こうすべきと相手に押し付けるような普遍的なことではありません。さしあたっては、自分の視点ではこう思える、という自分の文化を中心にした「語り」です。
 あなたの視点からは違うかもしれないけれど自分にはこう思える、と。

 お互いがそれを繰り返し、互いの想像力を重ね合わせていく中に、「連帯」が生まれていく。

 つまり、絶対的な真理はないという前提で、お互いの文化を尊重し、絶えずコミュニケートする。その絶え間なさの中に、ある種の関係性を通した成熟が生まれるというわけです。

 価値観や世界観は交わることは無いでしょう。
 それでも少なくとも政治的なことがらに対しては、一定の合意を得ることができると信じる。というのは政治的なことがらは、必ずしも価値観の一致が無くても、合理的にすり合わせられるからです。

 ここに、「討議(熟議)的民主主義」の考え方に至ります。

それでもやっぱり哀しき民主主義

 まとめます。ローティ、というかアメリカプラグマティズムの考え方です。『プラグマティズムの思想』(梅津郁夫)に分かりやすくまとめられています。

  1. 私たちは常に誤っている可能性がある(可謬主義)
  2. すべての人に何かを信じる権利がある(多元主義)
  3. 探求や会話を続ければ普遍的妥当性に至ると信じる

 信じて対話を続けること、この「続ける」という姿勢の中に真理があると信じるしかないのです。

 とはいえ、冒頭の安倍首相もそうなのでしょうが、議会人の哀しさ。どこか自分の正しさを主張せざるを得ないし、対話を続けず、どこかの時点で「多数決」という欠陥の多い制度に頼って結論を出さざるを得ない。
 それが、現代の民主主義です。

 ぼくたちは、自分たちが得た結論をとりあえずは正しいと考えてものごとに当たるほかありません。
 それでも、何か新しい状況が芽生えたら、再び対話する謙虚さを持つこと。このあたりの考え方については、以前「少数意見と合意形成」で述べました。

 絶対の真理に従うのではなく、終わりなきコミュニケーションの中に真理を探り続ける時代。

 多様性のある時代を生きるとは、そういうことです(もちろん、異議申し立てを認めます)。

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