新実存主義

 ドイツの哲学者、マルクス・ガブリエルの著作。『なぜ世界は存在しないのか』で一躍有名になりました。

 前著で「世界」をとりあげたガブリエルが『新実存主義』で取り上げるのは「心」。正直、ぼくにとって彼の文章はすっきり筋が通っているとは思えず難渋しました。

 それでもブログに書こうと思ったのは、本書が「新実存主義」を名乗っているがゆえ。

 実存主義といえば、ぼくの世代にとってはサルトルです。

 といっても入口はCMソング。野坂昭如が「ソ・ソ・ソクラテスかプラトンか/ニ・ニ・ニーチェかサルトルか」と歌っていたのでした。
 サルトルが「アンガージュマン」を唱えて社会に積極的に関わっていったことを知ったのは後のこと。第二次大戦後の世界にその思想が必要だったと、人は言います。

 ガブリエルの思想が人気を呼ぶのも、今が第二次大戦後に似て混迷の時代だからともいいます。だとすればこの新しい思想はどのようなエネルギーを秘めているのか。

新実在論とは何だったか?

 彼が『なぜ世界は存在しないのか』で立ったのは「新実在論」でした。
 本書『新実存主義』に、それにつながる言葉があります。

意識の場合、(中略)現われが実在なのだ。

(p59)

 意識(精神)は「現われ」てこそ実在する。補足すれば、自然の中にあるもの(自然種)は「現われ」ていなくても実在するということを裏面に含んでいます。

 これが「新実在論」ならでは。新実在論が敵とみなす「構成主義」的見方だと、人間が認識しないと事物は存在しないというスタンスですからね。

 たとえばコップ一杯の水という「自然種」。

 昔からの形而上学的とらえ方だと、誰にとっても(あるいは誰もいなくても)これは「コップ一杯の水」であり違いは無い。ただ一つの真実がある。

 一方、構成主義的考え方だと、コップ一杯の水は、それを認識する人によって違って現れてくる。

 ぼくはこちらの考え方に親しんできました。だって、「砂漠で迷った人」から見たコップ一杯の水と「東京の喫茶店で座る人」から見たコップ一杯の水では、持つ意味合いが違う。それを一緒には語れない。

 だから、ただ一つの真実の「コップ一杯の水」があるのではなく、それを認識する人の数だけ「コップ一杯の水」があり、それぞれが正しい。
 そして「多様性の時代を生きるということ~そのパラドクスを乗り越えて~」で記したように、コミュニケーション論的な方向を踏まえながら、それぞれの「真実」をすり合わせていくしかないという世界のとらえ方をしています。

 で、ガブリエルはというと。

 自然の中での「コップ一杯の水」は存在するというわけですね。

 ただし「砂漠で迷った人にとってのコップ一杯の水」も存在する。「東京の喫茶店で座る人にとってのコップ一杯の水」も存在する。それだけじゃない。たとえば「飲み物」という対象領域を設定すればその中にも「コップ一杯の水」は存在する。「水道水のゆくえ」という対象領域の中にも存在する。

 これら存在の仕方をガブリエルは「意味の場」と呼んでいます。「コップ一杯の水」は、それこそ無数の「意味の場」において存在する。

 そして世界は、こうした「あらゆる意味の場からなる意味の場」と定義される(だけどそのような「意味の場」はあり得ない=世界は存在しない)。

 というのが「新実在論」の話でした。

精神が持つ特色とは何か

 自然種と精神。この二つの違いについて、ガブリエルは指摘します。

ボソンについての自分の理解が間違っているからといって、ボソンが変わるわけではない。だが、虚妄は自分自身を変えてしまう。しかも多くの場合、まるで別人のように変えてしまう。

(p61)

 ボソンが自然種、虚妄は精神。先ほどのたとえをもう一度用いましょう。

 コップ一杯の水という自然種は、たとえぼくたちが「コップ一杯のお酒」と勘違いしていたとしても、水であることに変わりはない。

 しかし精神については、「コップ一杯のお酒」という誤ちによって、コップに口をつけることをやめてしまう、あるいは逆に「飲みたい」と欲望をかきたてるなど、たやすく変容します。
 精神というのが「現われ」と不可分だからこそです。

 ガブリエルは面白いことを言っています。

新実存主義は心の束説にコミットしている。心はさまざまな能力と活動の束であり、行為や思考を説明する文脈でそれらはひとつにまとめられるという説だ。

(p164)

 行為! なるほどです。

 砂漠で迷った人と東京の喫茶店で座る人にとってのコップ一杯の水。そこには違いがある。「行為」と結ぶと見えてきます。

 砂漠で迷った人であれば、すぐさまそれを手にして飲み干すだろうし、東京の喫茶店で座る人は口もつけずにいるかもしれない。
 そいういう行為の可能性を含んで説明する構造として、精神はそこに「在」る

 だからガブリエルは、「心」を「脳」で説明しようとする科学的還元主義(自然主義)を徹底して否定します。
 いくら脳画像を分析しようが、「脳」から「心」はつかめない。

実存主義と新実存主義

 実存主義といえばサルトルです。

 本書でガブリエルは、サルトルの実存主義から新実存主義が取り入れたのは次の2つの要素だと言います。

1)人間は本質なき存在である
2)人間とは、自己理解に照らしてみずからのあり方を変えることで自己を決定する

(p140)

 ここでサルトルの実存主義をサマリーしておきたいのですが、NHKの「100分de名著」の解説がとても分かりやすいので、そこから抜粋して引用します。

  1. 実存は本質に先立つ
    人間の本質は決まっておらず、現実に存在すること(実存)が先立つ。だから現実の中で自ら選択して現実の中で意味を選び取らねばならない。
  2. 人間は自由の刑に処せられている
    世界や存在に意味は無い。だから人間は根源的に自由だ。その絶対的な孤独と責任が人間に不安を与える。
  3. 地獄とは他人のことだ
    決して理解し合えない「他者」と相克しながら共生せざるをえない。人間はそんな「地獄」に生きる。
  4. 希望の中で生きよ
    根源的に与えられている「自由」を活かすためには、「状況」に対して自らを「投企」していくべきである(アンガージュマン=参加・拘束)。

 この整理でみるならば、サルトルとガブリエルの違いは、主に「人間は根源的に自由だ」というところのとらえ方にあると言えそうです。

 サルトルはその自由さに嘔吐するほどの孤独と不安を感じたわけですが、ガブリエルは「意味の場」をそこに設定しています。それは「他者」とそもそも違うもの。そうした中で「意味の場」を変えていくことで「希望の中で生きる」ことを目指していると理解するとよさそうです。

 余談ですが、ぼくはこの様子に、量子力学における「収束」を重ねてしまいます。

 シュレーディンガーの猫という有名な思考実験があります。量子力学において猫は生きている状態と死んでいる状態が重なり合って存在している。しかし誰かが観測することで生か死、どちらかに決まる(可能性が収束する)。

 人間もまた、重なり合う意味の場という量子力学的世界において、ひとつの意味の場を選び取って(収束させて)生きているのかなと、そんなことを思うのです。

サイクリング的世界観

 ただ、サルトルの「アンガージュマン」に対して、ガブリエルの思想はサルトルほどの強さを持っていないようにぼくは感じます。

 それはおそらく、サルトルにとっては、「投企」すべき「状況」があったのに対して、ガブリエルは「状況」を持たないことに発しているのでしょう。
 ガブリエルにとっては、人それぞれに違う「意味の場」があるだけで、向かっていくべき大きな対象はない

 ガブリエルへの期待は、ポストトゥルース時代において、フェイクニュースさえも相対化せざるを得ない現代思想の状況に対して、「実在はある」と切り込んだところにあったと理解しています。

 しかし注意しておきたいのは、「意味の場」においては、ユニコーンなどのフィクションも実在するということです。ということはフェイクニュースも実在する。
 ちょっとね、すっきりしないところです。けっきょく相対主義的世界観と変わらないのではないかって。

 では、現代社会においてガブリエルの思想をどう受け取っていけばいいのか。

 ガブリエルの好むサイクリングと自転車のたとえがあります。サイクリングを「心」、自転車を「脳」と置き換えて考えてください。

 自転車がないとサイクリングはできない。しかしサイクリングを自転車に還元できるわけではない。

 このたとえを用いながら、いくら自転車(脳)を分析しても、サイクリング(心)については分からない、と主張しているわけです。

 ただ、脳が不可欠なのは事実で、「心と脳の条件モデル」をガブリエルは提案しています。サイクリング(心)にとって、自転車(脳)は必要条件だということですね。

 ただし、十分条件ではない。

 ある人がサイクリングをしようとするとき、それぞれの思いがあります。ダイエットしたいと思っているかもしれない。恋人との思い出の地に出かけてみようと考えているかもしれない。
 それら思いもまた、「サイクリング」の構成要素、条件です。

 新実存主義的に生きるとは、そうした他者の「思い」を交錯させつつ、生きることを言うのかもしれません。

 ぼくの思いは実在する。あなたの思いも実在する。

 互いに実在する以上、真偽を問うても仕方がない。

 ここでは、あなたもぼくも、ユニコーンや火星人も、トゥルースもフェイクも、リアルに実在する。

 そういう多元的重なりの世界ゆえに、科学的自然観にとらわれず、それぞれの「意味の場」を参照し書き換えつつ、世界を創造することが大切と受け取りました。

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