教室から見える、とあるように、著者の戸塚さんは長年教育の現場で子どもたちに接してきた教師であり、ITを利用した授業でも先進的な取り組みをしてきた人。
その経験をふまえた印象的なエピソードが第四章に描かれている。
それは、マコたんの話。
彼女は転校生。授業中も休み時間も影が薄く、昼休みには独りでオルガンを弾いていた少女。
彼女が写生の時間に描いたメタセコイアの木は、まるで身もだえするように天に枝を伸ばしていた。
戸塚さんはやがて彼女がそんな絵を描いた理由を知る。
彼女は、愛する父親を亡くしていたのだった。
だけどほどなく、メタセコイアは切り倒された。
メタセコイアの切り株を見て、戸塚先生は思いつく。
年輪の輪っかの濃淡をドレミの音程に変え、輪の間隔を音の長さに変えてやれば、「年輪の音楽」ができるのではないかと。
夏休みの自由研究のテーマにどうだ、と子どもたちに持ちかけた。1988年のこと。大人でも難しそうな課題に、みんなはしり込みする。
そんななか、やってみると声をあげた子がいる。マコたんだった。
そしてマコたんは、先生から教えてもらったミュージックソフトとシンセサイザーで、可愛らしいワルツを作り出した。
その曲は評判になり、全国青少年発明工夫コンクールで科学技術庁長官奨励賞を受賞する。
翌年、テレビ番組の企画で少女のもとを訪れたアップル社の伝説的エンジニア、ビル・アトキンソンが、彼女に「やあ、小さなモーツァルトさん!」と声をかける……。
戸塚さんは言う。
子どもたちは、誰も能力を等しく与えられている。子どもたちの思考を助け、学びを連れてくる「道具」の助けさえあれば、その力は成長し続けると。
おそらく、戸塚さんが考える情報ツールと教育の関係は、このセンテンスに凝縮されている。
ただ、残念ながら現実はそのようには動いていない。
検索すればわかるもんねと、知識ばかり豊かなデジタルっ子ちゃん。
本物を体験させるよりプロジェクターによる仮想体験を優先するヤフー先生。
こうして視覚も聴覚も嗅覚も触覚も味覚もグレーで、身体感覚も生理感覚も磨かれないままの子どもたちが育っていく。
その結果が、ネットいじめであり、日本のネット教育の死であった。
そこから、どう一歩進むか。
仮想がいけないわけじゃない。
子どもは仮想が大好きだ。空想をなくした子どもほど辛いものはない。
要は、脳の中で育てた仮想と、現実世界を刷り合わせるチャンネルを充分に磨いているかどうかということ。
脳ばかりで考えるのはやめよう。
身体を開こう。
視覚だけじゃなく、聴覚を、嗅覚を、触覚を、味覚を。そして身体感覚を、生理感覚を。
おそらく今、バランスが一方に傾きすぎちゃっているんだ。
ミラーニューロンや心の理論など、先端の脳科学の紹介もされているが、なにより実践を通したメッセージが心に残る。