ある調査によると、SNSなどのコミュニティサイトを利用したことのない保護者が3割という。しかし、出会い系はもちろん、学校裏サイトにしても、今問題になっているケータイサイトの多くは、コミュニティ系だ。保護者と子どもの間には、ネット利用においておおきな断絶がある。
おそらく親にとっては、学校裏サイトを探すことさえ難しいのではないか。子どもに与えたのは携帯電話であって、副題にあるように「ケータイ」であるという認識をしていない親も少なくないかもしれない。
ケータイとはつまり、インターネット端末としての携帯電話であり、会話ツールではなく交流ツールとしての携帯電話を意味している。そしてそこは「無法地帯」と化している……。
無法地帯という表現は過激で、多少「あおり」っぽく思えるが、本書の内容はむしろ副題の後半に向けての真摯な表現に満ちている。
早くからケータイサイトの危険性について調査を進めていた著者は、親と子の差を埋めるために、ケータイの実態についてていねいに書き起こしている。学校裏サイトを見つけるためのヒントや、仮に見つけられないとしても、実際にケータイサイト上でどのようなことが行われているかについて、具体的に紹介されてもいる。ケータイ問題を考えるにあたって格好の入門書であろう。
もっとも、下田さんが言う「子どもを救う方法」はとても地道だ。実際、特効薬があるわけではないのだろう。
もっとも必要なのは、「大人は君たちの行動を見ている」とはっきりとメッセージを出すことだ。それというのも、学校裏サイトに参加する子どもたちは、そこが「秘密基地」であるという前提に立っている。校舎の影に隠れてタバコを吸っていたかつての不良少年のようなもので、秘密の場所だからこそ、行為がエスカレートする。
だから、裏サイトを知り、子どもたちの発言や行動を見ていくことが必要。見られているという思いが子どもたちの心にブレーキをかける。
これはすごく納得できる訴えだ。その上で、リテラシー教育をする。こんな、地道な努力の積み重ね。
もっとも、ケータイサイトを見ていくことには限界もある。パソコンでのインターネットと違って、手のひらの世界は、親の目も届きにくい。
基本は利用の禁止でもいいのではないか、と下田さんは言う。
実は、このあたりはぼくの実感とも近い。ぼく自身は、インターネットを利用した情報発信のおかげで人生の可能性を開かれたのでもあり、ネットが持つ「つながり」の力をたいせつにしたい。
しかし、そのぼくでも、いざ自分の子どもがネットを利用する年齢となると、とまどっている。ネットリテラシーを教えることの難しさに。
そして、いろいろと考えるうち、少なくとも小学生、あるいは中学生くらいまでは、ケータイは持たなくていいと思っている。持たせるにしても、通話機能と位置情報機能だけでいい。
禁止するより幼い頃から情報リテラシーを身につける方が情報社会を生きる上で必要という声があるかもしれない。しかし、どうなのだろう。子どものうちはむしろ、手のひらの中で遊ぶのではなく、生身の人間と出会い、身体を使った体験を重ねることが重要ではないか。そうして磨かれた生命感覚があってはじめて、情報も使いこなせるのではないか。
パソコン・インターネットについても、フィルタリングされた環境でいいと思っている。ネット上での書き込みは禁止していい。幼い子が道路に出るときは必ず親が手を引いているように、インターネットの世界でも、しっかり手をひいてやる。
情報リテラシーというのは、ネットの中にだけあるものではない。この世界のあり方そのものが情報だ。このリアルな世界との接触さえままならないうちに、仮想的な情報に触れさせる必要があるのか。
この世界における子どもの成長という視点から検討すべき問題だ。
「学校裏サイト―ケータイ無法地帯から子どもを救う方法」への1件のフィードバック