ソーシャルキャピタル、地域コミュニティといった方面に関心を持たれている方にぜひお薦めしたい。
コミュニティについて語るとき、今もっとも参照されるのはロバート・D・パットナムによる「ソーシャル・キャピタル」の考え方だろう(『孤独なボウリング―米国コミュニティの崩壊と再生』など)。町のボウリング連盟に見られるような、強固な地元コミュニティが、市民の参加性を高めてきたというのが彼の議論だ。
同じく地元コミュニティや家族や隣人の交流を重視するのがコミュニタリアンによる市民社会論。
ぼくはずっとこうした立場の人たちに共鳴して来た。今、日本でも言われる「地域コミュニティの崩壊」に対して、まだ地縁の濃い地方でのあり方を探ることで新しい道を探したいと考えてきた。
しかし、パットナムやコミュニタリアンたちが唱える「地元コミュニティの崩壊」は、視野の狭い「スナップショット」だというのが、シーダ・スコッチポルの見立てだ。
彼女は、問題意識としてはパットナムらと共有しつつ、米国草創期からのコミュニティのあり方を研究し、「長い視点」のもとに、コミュニティの歴史的変遷を明らかにする。
彼女は言う。かつては確かにコミュニティ活動が盛んだった。市民参加による民主主義がアメリカを形作ってきた。
しかしそれは決して、小さな地元コミュニティの濃さによっていたのでは「ない」。むしろ、複数の全国的な広がりを持ったコミュニティへの参加を通して、市民参加はなされてきたのだと。
全国的な広がりを持ったコミュニティの代表例は、禁酒協会や独立オッド・フェローズ結社だ。それらはいずれも全米で数千にのぼる地方組織をネットワークしていた。そうした全国的な組織、全米人口の1パーセントを超える会員数を有していた組織が、100年以上前から50以上もあったのだ。
日本人のぼくたちにはイメージしづらいだろう。日本でいえばPTA(これも起源は米国)やJCを想像してもらえばいい。各地域単位で組織があり、毎年選挙で代表が選ばれ、それら代表が集まる支部があり、そして全国組織につながる。
アメリカの民主主義は、まさにそうした全国的なネットワークを持つ団体が、メンバーシップ(会員)を募って活動することによって築かれていた。
ロングショットで見れば、失われたのは地元コミュニティではなく、そうした全国ネットワークのコミュニティだった。
なぜ失われたのか。
それを表現したのが本書の副題である「メンバーシップからマネージメントへ」だ。1960年代以降、コミュニティはメンバーシップ型からマネージメント型に重心が移る。
これにはすごく考えさせられるのだけれど、マネージメント型とは、NPOなどに代表される、専門家を中心に計画され運営するタイプの組織だ。国民の高学歴化や社会の高度化なども背景にあるだろう、専門分野の問題解決に取り組む団体が、頭角を現し、重みを増していった。
メンバーシップ時代、多くの団体の理念は「友愛」だった。マネージメント型の組織における理念は、個別専門的な問題解決(アドボカシー)になる。
代表の選ばれ方だって違う。たとえばあなたがPTA及びNPOの会員だったとして、「自分も役員になるかもしれない」という可能性はどちらが高いか。
なるほど、そうしてぼくたち庶民の参加性は衰えていった。
そういう見立てだから、シーダ・スコッチポルによる、コミュニティ再生への処方箋はパットナムらとは異なってくる。
パットナムやコミュニタリアンが第一に重視する「地元コミュニティの再生」ではなく、全国的なネットワークを利用した会員誘致活動、専門家に頼らない市民参加を促す仕組みが必要なのだ。
身近にするために日本での例をひきつつ述べた。
ただ、米国と日本では、コミュニティの歴史に大きな違いがある。かつて日本で盛んだった「講」や「結」といった組織は、全国ネットワークを持っていたかどうか。
スコッチポルの解決策を日本に適用するには、留保も必要だ。
ただ、スコッチポルが提起している「メンバーシップからマネジメントへ」という視点は、日本の将来を考える上でも、非常に刺激的だ。
おそらくこれからも、何度も参照することになる概念だろう。
ソーシャルキャピタルに興味があるので、近いうちに読んでみようかと思います。 しかし、メンバーシップからマネジメントへ、というのは、世界の在り様が段々複雑になって、個々人が常識として持っている能力では各々の組織の意思決定を効果的に行えなくなってゆく、ということなのですかね? そうだとすると、教育の問題にも発展してゆきそうな気がします。
まずは政府に声を届ける(民主主義への参加)にあたって、メンバーシップ型の組織よりもマネジメント型の組織の方が声が大きくなったという、社会構造上の議論があります。
具体的には、1960年代以降、たとえば環境団体など、専門的集団の役割が高まってきたと。
非常に勉強になる本でした。
スコッチポルの叙述によると、19世紀から20世紀前半にかけて全国的な自発的参加集団が栄えたのは、会費や時間などのコストをかけて参加する側にとっても、苦労をして組織する側にとっても、いずれの側にとってもメリットがあったからのようです。
参加者にとっては、開拓の初期のころは行く先々に支部のある組織に加入することは、情報の面でも人的サポートの面でもメリットがあったことでしょう。あるいは、生活保障の面である程度の相互扶助が見込めた点も魅力があったと思われます。開拓が一段落すると、今度は政府から公的なサービスを引き出すための圧力団体してのメリットが、上記のメリットに次第に置き換わっていったようです。また大きな組織に参加し、公的な目的の追求に参加すること自体が心理的な満足感を与えていたことがうかがえます。
一方、組織者にとっては、大きな団体を組織し運営することでスキルが獲得できることがひとつのメリットであり、選挙に出ることを念頭においたときには、組織からの直接の支援や「民主的な」指導者であるという評判の獲得が大きなメリットになったことと思われます。
これらの参加者側のメリットと組織者側のメリットがあいまって巨大な全国組織が可能になったのでしょう。そうであるとすれば、これらのメリットが失われるとき、参加にも組織にも大きなコストを必要とする巨大組織が衰退したとしても不思議なことではないと考えられます。
ある程度の生活が保障されるようになり、個別の案件で政府に影響を与える上で、専門家集団とそれを支えるパットナムのいう3次集団の方が有効になると、わざわざ全国的なメンバーシップ組織に参加する必然性はなくなります。公的な事柄よりも私的な身のまわりの事柄への関心のシフトも、この傾向を助長するでしょう。組織者のがわにとっても、マスコミを用いた大規模宣伝が有効になると、こちらも全国的なメンバーシップ組織を維持するメリットは少なくなります。
そんなわけで70年代以降、全国的なメンバーシップ組織は衰退していったのだと思われますし、理由がわかってもこの傾向に歯止めをかけるのはなかなか難しそうだと考えられます。
ただ、スコッチポルはこの手の大規模集団の働きを過大評価をしているような気もしますね。パットナム(1993)が示したイタリア北部の状況は、州をまたぐような大規模集団がなくてもそこそこ良い社会や良い政府が可能であることを示しているようです。どのような参加やどのような形態の集団が適切な社会にとって必要なのかということは、引き続き考えていきたい課題です。
ああ、なるほど、参加するメリット、組織することのインセンティブといった見方も欠かせませんね。
また大規模集団ではない、地域ごとのメンバーシップ型組織が自律して、創発につながらないかといったことも思います。
考えさせられることしきりです。
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