<私たち>の場所―消費社会から市民社会をとりもどす

“私たち”の場所―消費社会から市民社会をとりもどす 副題には、消費社会によって市民社会が奪われてしまったという含意がある。その思いが今の自分にすごくフィットしていたのが、本書を手にした理由。

市民社会、それは「あなたと私」の相互関係を調整する空間。国家でも市場でもない「第三の領域」だと、バーバーはいう。
彼は市民社会を三つの型に分類する。リバタリアンのモデルとコミュニタリアンのモデル、そして強靭な民主主義のモデルだ。バーバーが目指すのはこうち最後の型。

市民社会を論じるとき、ぼくたちは公的領域と私的領域というふたつの区分に依拠している。この二項は、国家と個人、権力と自由に置き換えてもいい。

リバタリアンのモデルは、この二項の区分を前提として、そのうち私的な領域としての市民社会を重視するものだ。

私的な領域においては、個人主義が徹底され、人間関係は契約関係に近い。個々人が自分たちの自由を守るために行う一連の取引が、人間関係を形作る。

市民社会のプレイヤーである個々人は、自由を守る一方で奪いもする政治を恐れ、その介入を拒否する。私的プレイヤーから構成される市場は、自由への入場券だ。

リバタリアンのモデルによれば、個人と国家は対立し、その間を仲介することはできない。

コミュニタリアンのモデルにおいても、社会は公的な領域と私的な領域に分かれ、市民社会は私的な領域に属する。その点においてはリバタリアンのモデルと変わらない。

ただし、コミュニタリアンのモデルにおける市民社会は、孤独な個人から構成されるのではない。共同体が先立ち、さまざまなレベルの絆によって相互に結びついた空間であると考える。その結びつきは、選び取るものではなく与えられる(帰属)もの。

コミュニタリアンのモデルを採用する場合、この帰属性ゆえに、民主主義とは少々折り合いに工夫が必要になる。

では、強靭な民主主義のモデルとは?

リバタリアンのモデルもコミュニタリアンのモデルも、国家と個人を切断し、二つの領域を切り離していることには違いがない。しかしバーバーは、市民社会を私的領域にあるものとしてではなく、その間にある第三の領域にあるものとして構想する。

それはたとえば、公共的な意識、あるいは一般的な善と公益の配慮を政府と共有しつつ、政府のように強制力によるのではなく、私的領域にある個人の自発性によって参加していくことを目指す。ふたつの領域を仲介するのが、このモデルなのだ。

具体的な方法として、バーバーは次の6点をあげている。

  1. 公共の空間を拡大し強化する(特にショッピングセンターを真に公共化する)
  2. 情報通信技術を強化し商業化を防ぐ
  3. 生産を自国化し企業を市民社会の構成員にする
  4. 消費を自国化し公正な商品を促進する
  5. 国民の共同体への奉仕とその教育プログラムを組む
  6. 芸術と人間性を育てる

思い出話をひとつ許してほしい。

20年ほど前、ある住宅設備メーカーによるバスタブの新商品の命名コンテストがあった。コピーライターとして社会人になったばかりのぼくは、先輩に薦められて応募した。

落選した。

そのとき提案したのが、「ぼくの居る場所」。そう、これが商品名である。
採用されるはずのない案だと思う。

でもなぜか、いい案だという思いが、今もあるのだ。

あの頃、ぼくはゆったりと湯につかってくつろぐのが「ぼくの居る場所」という思いを抱いていた。

だけど今は違う。自分の居る場所は、安息の場所にはない。といって、目指すどこか遠いところにあるわけでもない。

それが具体的にどんな場所なのかは、わからない。わからないけど、わからないなりにもがき続けている、それこそが「ぼくの居る場所」にほかならないと、気づいた。

<私たち>の場所もきっと、そうだ。

公的か私的かという対立を超えて、第三の領域を作り出そうとする、その試行錯誤の中に、<私たち>の場所は、ある。

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