文明の対立、あるいは文明の衝突といわれる。最近では文明の対話とも。端的にはそれは、キリスト文明とイスラム文明の対立、あるいは対話を意味している。
分かりやすい構図だ。キリスト文明とイスラム文明は違う。宗教思想が違う。だから対立する。対話しなくてはいけない。
ただ、分かりやすさは危険だ。
分かった気になって、そこで思考停止してしまう。
違うから対立する。
なるほど。
でも、それってどこまで自明なのだ?
たとえば、ぼくとあなたは違う。だけど、だからといって対立するだろうか。
仏教と神道は違う。でも、だからといって対立するだろうか。
その本質をつかむためには、どうやらぼくたちは宗教思想のさらに奥へ踏み込まねばならない。
対立するとすれば、何において対立しているのか。
対話するとすれば、なにをきっかけにすればよいのか。
本書の副題が訴えているのはそれだ。
宗教思想の深淵へ。
たとえば、イスラームでは人をどのようなものと見ているのか。世界をどのようなものと見ているのか。それを知るためには、イスラームを表面的になぞるだけではもちろん、たとえ深く入り込んでも、他の思想との比較の上でとらえないと、つかめない。
塩尻さんは、この難題に取り組んでいる。「はじめに」に記された「私が意図するものは、このいずれにも属さない、ひろく比較宗教学的な見地からイスラームを捉え、客観的な視点からイスラームを再考するもの」という言葉に、その姿勢は示される。
たとえばイスラームの世界観のなかでもっともめざましい、神が世界を一瞬一瞬新しく創り替える「不断の創造」(だからイスラームには「歴史」がないと言ったのは『歴史とはなにか』の岡田さんだった)。
あるいは、イスラームにおけるイエス。三位一体のとらえかた。
塩尻さんは、こうして宗教思想の深淵をさぐった上で、それぞれの宗教が語り合うことの必要性を説く。そして、政教分離政策が現代政治にとって最善策であったかと問いかけ、古典的な意味での政教一致ではなく、「宗教の精神や理想を政治に応用するという、新しい発想の政教一致を考えるときにきている」と訴える。
たとえば「隣人愛」に従ってアメリカの外交政策が実行されるなら。ユダヤ教の「十戒」、イスラームの「タクワー」の精神が、文字通り正確に実施されるなら。
宗教とは、本来それそのものの拡大のためにではなく、人間を救い、魂を救うためにあったことに立ち返るなら、そう、なるほどぼくたちは政教分離を言うよりも、信じる心を保ってよき人間であったうえで、政治に向いたい。
ただ、宗教が表面的に理解されると、それは危険なことになる。それだからこそ、深淵をつかむ必要があるのだ。
政教分離こそ重要という日本での一般的常識を、振り返ることができる本。