障害者、障碍者、障がい者と障害のある人

 過疎法について、以前「過疎法ってどんな法律?」でご紹介しました。

 新過疎法によって丹波市青垣地域が「過疎地域」の対象に追加され「過疎地域持続的発展計画」が策定されました。
 このほどあらたに山南地域も追加になるのですが、それに先立ち、青垣地域の計画変更議案が提案されています。

議案12号 丹波市過疎地域持続的発展計画の変更

 取り組む事業として、あらたな道路路線と橋梁を追加するもの。計画に記されていないと過疎債の対象にならないので、先だって計画に記載するわけです。
 それ自体はすべきこととして。

 本筋からはズレるのですが、今回の計画変更の中で、字句修正があります。
 せっかくなので、その話を。

「障害者」表記をどうとらえるか

 字句修正というのは、当初計画にある「障がい者」という表記を「障がいのある人」に修正するという提案です。変更自体は異論ないのですが、その背景が気になったので調べてみました。

 現状の各種法律等では、「障害者」という表記が使われています。これに対して、「障がい者制度改革推進会議」で、表記変更の議論がなされたのが平成22年(2010年)頃のこと。
 当時の会議資料に「『障害』の表記に関する検討結果について」があります。
 「障害」か「障碍」か「障がい」か。

 この資料によると、「障碍」はもともと仏教用語で、「しょうげ」と読まれてきたそうです。「ものごとの発生、持続にあたってさまたげとなること」という意味なのですが、平安末期以降「悪魔、怨霊などが邪魔すること。さわり。障害。」の意味で多く使われてきました。

 これに対して「障害」は江戸末期に使用例があるそうですが、明治期に「障碍」を「しょうがい」と読む用例が現れ、併存するようになりました。不便を解消するために大正期になると「しょうがい」に対しては「障害」を用いることが一般的になったそうです。

 この流れの上で、国語審議会による「法令用語改正例」(昭和29年等)が「障害」のみを採用したことで、「障碍」という表記はほとんど使われなくなりました。
 とはいえ、当時日常生活で「障害」が使われることはほとんど無かったようです。いわゆる差別的用語が残っており、日常的にはそれらが使われていたんですね。

「障害」を作っているのは?

 参考までに、障害者基本法から用語の定義を引いておきます。

第二条 この法律において、次の各号に掲げる用語の意義は、それぞれ当該各号に定めるところによる。
一 障害者 身体障害、知的障害、精神障害(発達障害を含む。)その他の心身の機能の障害がある者であつて、障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるものをいう。
二 社会的障壁 障害がある者にとつて日常生活又は社会生活を営む上で障壁となるような社会における事物、制度、慣行、観念その他一切のものをいう。

 障害者と社会的障壁について定義されています。

 当然ながら、障害のある人自身に問題があるわけではなく、社会的障壁の側が問題であるわけです。
 現在言われる「包摂型(インクルーシブ)社会」とは、障壁の無い社会のことであり、仮に障壁が無ければ、そもそも「障害のある人」も生まれようがないのではないか。

 そんな考え方を基本に持っておくべきでしょうね。

「障害」をめぐる社会モデル

 前述の会議資料では、英米における二つの社会モデルを紹介していて、示唆的です。

 ひとつは「impairment」で、これは医学的に「機能障害」と考えるモデル。
 しかし、これを批判的にとらえ、「disability」とする考え方が、米国も含めて主流といいます。可能性を閉ざされるといったニュアンスですね。社会参加が阻まれることにより機能発揮ができなくなっていると考える「相互作用モデル」です。

 いま「障害者」という言葉が問題視されるのは、「害」という言葉に「害虫」「害悪」など当事者の存在を否定する価値観を増長する側面があるからです。
 相互作用モデルのとらえ方からすると、「害」があるのは、むしろ、ある特性を受け入れられない社会の側であるという考え方になります。

 そういう意味では、「障碍」という表記であれば、「碍」の字に「カベ」という意味があり、社会の壁に立ち向かうという意味合いを持たせられていいという考え方があります。
 ただ一方で、もともとの仏教用語の意味合いからしても、結局は「害」と変わらないのではないかとの指摘もある。

 そんなわけで、漢字表記の書き換えは浸透しておらず、とりあえず「害」の文字のニュアンスを弱める意味で、「障がい者」という表記が利用されるようになってきた経緯があります。

属性としての「障がい」

 こうした流れに対して、「障がいのある人」という表現はまた少し違う観点を持っているように思います。
 それは、「障がいのある人」と「障がいの無い人」があり得るように、「人」の属性であるという考え方がより反映されているように感じるからです。

 このことを、アメリカでは「people-first language」というそうです。disabled peopleではなく、people with disabilitiesと表現しようということですね。
 形容詞的に頭につけると、その人自身に障害が含まれる、「Being」の考え方になるけれど、with で受けることで、「Having」というとらえ方になる。

 これは、相互作用モデルの考え方とは観点の違う、基本的人権に則した議論です。一人の人間としては、障害のあるなしに関係なく等しく社会に存在する。
 人としては同じであり、ただ障害の有無という特性があるだけ。

 この流れが明確になったのは、国連が2006年に「障害者の権利に関する条約」を採択したこと。日本は2014年に批准。平成26年(2014年)に「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」(いわゆる「障害者差別解消法」)を施行します。

 それぞれの自治体でも、こうした流れと並行して条例制定が進みました(地方自治研究機構「障害者差別解消に関する条例」参照)。
 この中で目立つのは「共生」という言葉です。そして表記上は「障害のある人」が中心です。

 考えてみれば、「障害」というと取り除くべきという考え方につながりやすい気がします。そうではなく、特性と考えて共生を目指す。大切な視点だと思います。

定まらない議論の行方

 丹波市では、「「障害」の「害」の字のひらがな表記について」にあるように、「障がい者」とひらがな表記を進めています。

 一方、たとえばNHK「「障害」の表記について」(2019年11月)では原則として「障害」表記とすると結論しています。

 「碍」については常用漢字表に無く、長く検討はされてきました。

 文化審議会では、「「障害」の表記に関する国語分科会の考え方」(2021年3月)で、当事者を含めた議論が必要としており、方向性はまだ定まっていません。

 目指す姿は誰もが同じだと思いますが、ここで紹介したような多様な価値観、考え方のレベルがある。言葉一つの問題ではないのですね。

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