観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

 観光客って何でしょうか。

 日本では現在、インバウンドが盛り上がっています。この傾向は世界的なものです。本書に引用されている国連世界観光機関の調査によると、1995年に約5億人だったインバウンド総数は、2015年には約12億人になっている。

 今、人口が減少する地方にあって、「ツーリスト」に期待するところは大きい。

 もっとも本書が示す「観光客」は、それとは少し違います。違うながらも、地域での取り組みを「観光客の哲学」を手がかりに考えることができる射程を持っています。

観光客と共同体

 著者は観光客を「特定の共同体に属しつつときおり別の共同体を訪れる人」と定義します。
 これに対して、特定の共同体のみに所属するのが「村人」で、どの共同体にも属さないのが「旅人」。

 和辻哲郎『風土論』あたりを下敷きにした「風の人(よその人)」「土の人(地元住民)」という言説を思い出しますね。「村人」が「土の人」で、「旅人」が「風の人」にあたると考えていいでしょう。

 そう考えるとユニークなのは、「観光客」は自分のコミュニティを持っているという定義です。そこは単なる「風の人」とも違うし、移住者とも違う。

 じゃあ、観光客による行動上の特徴は何か。

 訪問地をショッピングモールのようにみなすっていうところ。要は好きなところだけを消費するってこと。
 ただしそれは案外クリエイティブな作業です。著者はコミケの同人誌のような二次創作を例に出します。

 なるほど、二次創作がクリエイティブなのは、コスプレやパロディまんがを楽しむ同人というコミュニティがあるからこそ。
 同じように、観光客も自らのコミュニティを持っている。彼らによる観光地の「二次創作」に期待したくなってきます。

 あ、でもこれは本筋じゃありません。

グローバリズムとナショナリズム

 さて。そもそも人間は「自由でありたい」と願っていますよね。旅先ではそれが少し、かなう。

 一方で、それなのにわれわれは「社会」を作ります。社会なんて窮屈になのになぜ作るのでしょう。

 この謎に対してヘーゲルは「人間は国家をつくり国民になることで未成熟な自分を克服するのだ」と言いました。

 ここ、ひとつの到達点ですね。人間は成熟、進歩し、国民国家を形成する。

 ところが。

 いま、グローバリズムという流れが来ています。

 はじめ、グローバリズムは国民国家を崩壊させると考えられました。でも実際のところはどうでしょう。ナショナリズムはむしろ高まっています。
 どうやら、グローバリズムとナショナリズムは対立するのではなく、併存する。

 どういうことでしょう。

 寄って立つ原理が違うんですね。
 グローバリズムは経済の原理です。欲望(身体)が国境を超えて巨大化していく。これをネグリ/ハートは「帝国」と名付けました。
 一方でナショナリズムは政治の原理。こちらはヘーゲルが言うように理性(頭)で形成されるもの。

 経済という欲望(身体)ではつながって「帝国」を生みつつ、政治という頭はネーション単位に分かれて「国民国家」を形成している。

 それが世界の現状。

マルチチュードの限界

 つまり現在を生きるぼくたちは、帝国と国民国家の層に引き裂かれているというのが本書での指摘です。

 問題は「帝国」が欲望の原理であって、政治的でないことです。この政治的でないものを政治的に語ることができれば、両者を統合することができる。

 ではどうするか。とりあえずの手がかりは、ネグリ/ハートが提唱する「マルチチュード」です。
 マルチチュードというのは、帝国内部から生まれる帝国の秩序への抵抗運動のこと。まあ、市民が連帯して行う政治的デモのようなものですね。

 ただこのマルチチュード、ふたつの点で欠陥があると言います。

 ひとつはネグリ/ハートが、帝国がやがて国民国家にとって代わるという前提を持っていること。そうではなく両者は併存するというのが著者の主張です。

 もう一つの欠陥は、マルチチュードがただ「連帯」することを重視し、個々のイデオロギー(エコロジーでもフェミニズムでも)を問わないこと。
 愛でつながろうぜ、としか言ってないというんですね。

 では著者は何を提示するのか。

 それが「郵便的マルチチュード」です。「郵便的」は著者の以前からの用語ですが、さまざまなメッセージがあちらこちらに配達される世界、ときには誤配もある世界をイメージしてください。
 つまりは、観光客が行き交う世界です。

観光客が帝国を破壊する

 一周まわって「観光客」に戻ってきました。

 この後著者はスモールワールドやスケールフリーなど、ネットワーク理論からの知見を引用し、そうした考え方との親和性を指摘します。
 それも面白いのですが、先に進みます(実は前段でも帝国とリバタリアニズム、国民国家とコミュニタリアニズムなど面白い話があるのですが割愛しました)。

 ここで著者はローティを引きます。
 ローティ! 「多様性の時代を生きるということ~そのパラドクスを乗り越えて~」で紹介しました。

 リベラル・アイロニストですね。
 目の前の人と分かり合えないと知っている、知っているけれども「苦しくないですか?」と声をかけ、気持ちを寄せる。コミュニケーションの先に、連帯がある。

 で、「観光客」にこの可能性をみるというのが、著者の投げかけなのです。国民国家というコミュニティを持ちながらも世界に出かけ、「苦しくないですか?」と声をかける。そこで生まれる「あわれみ」の感情。
 著者はこれを彼なりの用語、「誤配」と呼んでいます。この誤配が連帯を生む。そして連帯は、帝国を内部から破壊する「マルチチュード」となる。

「観光客」を活かした地域活性

 観光客の哲学はぼくたちをずいぶん遠くまで運んできました。

 もういちど立ち返って、地域の視点からこの概念をとらえなおしましょう。

 東京一極集中。これが現代の日本が抱える課題です。それを支える論理は経済、つまりは帝国の原理での現象です。
 一方で、各地域のコミュニティをここでは国民国家と考えてみましょう。

 この二層構造に対して観光客は何ができるか。
 注意してくださいね。ここでいう「観光客」は「誤配」する人です。地域の人とコミュニケートし、連帯する人たち。

 そう考えると、まさに今注目されている「関係人口」という考え方に近いかもしれません。仮にそうだとして、どんな「関わりしろ」を設けるのが「誤配」を促し連帯を生むのでしょうね。

 余談をひとつ。

 かつてぼくが創業したある地域づくり会社では、移住者ばかりを採用していました。
 外と地域をつないでほしいと願ってのことでした。その名刺には「大阪←→丹波」のように、その移住者がもともといたコミュニティを入れて表記していました。
 別の地域にも足場があるということを重視していたわけです。

 当時、会社のことを「風の人」を意識して「風の会社」と呼んでいました。でも本書を読んだ後では、むしろ「観光客」の考え方だったと気づいた次第です。

 経営から身を引き、今ではその会社に関わることはありません。もしかすると先進的だったかもしれないコンセプトを活かしていてほしいと願いつつ、本稿を閉じます。

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