社会的選択理論という学問分野があります。何かを決定しようとするとき、どのような決定方法がいいかということを研究する分野です。
ABCの3人から1人を選ぶとします。どんな方法をとりますか?
簡単なのは1名だけ書いて投票してもらう方法。10人が投票してAさんが4票、BさんCさんがそれぞれ3票とすると、Aさんに決まる。
でも、考えてみれば過半数の6名はAさんじゃないという意思表示をしているわけです。いわゆる、死に票が多くなる。
多数決って、あまり良い方法じゃないんですよね。
もっとも世論を反映するのはボルダルールという投票手法です(ボルダさんが考えました)。順位をつけて投票し1位に3点、2位に2点、3位に3点と配点する方法です。
しかしコンドルセという研究者は、それにも問題があると指摘しました。
投票した人はみんな順位をつけて投票しています。そこで、3人のうちでAさんとBさんだけの順序を調べます。
その結果、AさんをBさんより上位に順序付けした人が多かったとします。であればAさんとBさんならAさんが選ばれるべきですよね。これを「ペア勝者基準」と言います。
ボルダルールでは、Bさんが選ばれるケースが出てしまうのです。ペア勝者基準を満たさない。
いちばんいいのは独裁制?
これまで社会的選択理論を学んでいて、ショックだったのは「アローの不可能性定理」でした。本書でも紹介されています。
余談ですが、この定理を知った当時、物理の不確定性原理、数学の不完全性定理などと並べて、ここでも限界があるのかと感慨深かった思い出があります。
アローの不可能性定理とは何か? 本書ではこのように表現されています。
二項独立性と満場一致性を満たす集約ルールは独裁制のみ
なんと、独裁制がベスト?!
二項独立性というのは、二つを比較するときに、第三の項が影響を与えてはならないというもの。Aの方がBより良いと考える人が多ければ、集約結果もAをBより良いとならなくてはいけない。
あたりまえのようですが、ここでCという要因が入ると話がややこしくなります。A-C-BにせよC-A-Bにせよ、AとBではAの方が良いとする人が多ければ、集約した結果もAがBより上位にこないといけない。
ところが。かつてアメリカ大統領選挙でブッシュとゴアが争ったときを思い出しましょう。
ゴア有利の前評判でした。そこにネーダーという第三の候補が表れ、ゴアの票を奪ったことで、ブッシュが選ばれたのでした。
ゴアとネーダーはどちらかというと似た政策で、仮にネーダーに投票した人に尋ねたら、きっとブッシュよりゴアと答えたでしょう。つまり、ブッシュとゴアなら、ゴアの方を良いと考える人の方が多数派だったはず。ところが、結果はそうならなかった。
こういうことを避けるというのが二項独立性です。
満場一致性というのは、AとBで全員がAの方がBより上とする場合、集約した結果もAをBより上としなくてはならないというものです。
このどちらもを満たそうとすると、決めるのが一人=独裁=の場合しかないというのです。
言い換えれば、二人以上で多数決をとるとして、選択肢が3つ以上ある場合は、公正な投票制度は存在しないということです。
これをアローは数学的に証明してしまった。
陪審結果が正しくなる確率は?
コンドルセは陪審制度についての研究も行っています。これがおもしろい。
仮に一人の陪審員が有罪か無罪か、正しい回答をする確率を0.6とします。一人だと10回に4回は間違えるということですね。
では3人にして多数決で決めるとすれば、どうなるか。数学的な計算ですが、正しい回答をする確率は0.648に上がります。少しのように思えますが、陪審員を101人にすると、なんと正しい確率は0.97にもなるのです。
ただしこのとき、条件があります。それは次の二つ。
- 適切な情報が陪審員に与えられていること
- 陪審員が他に流されず自分の判断で決断すること
コンドルセはこのように言っています。
自分自身の意見から抜け出たうえで何が理性と心理に適合するか選ばねばならない
要するに、自分の思いではなく、みんなの思いはこうであるだろうと自分自身で判断して決断しろということです。
この「自分の思い」から離れるっていうのがとても難しいですよね。
でも「みんなはこう思うだろう」という判断基準を持つというのは、とても大切な示唆を与えてくれます。
この判断基準を養う必要がある。そのための手法が「熟議」です。
熟議の民主主義へ
ルソーは『社会契約論』の中で、共通の利益や平等を志向する「一般意思」について述べました。そしてわれわれは一般意思のもとで、自然的自由(本能のようなもの)から逃れ市民的自由を手にすると言います。
そしてそこには道徳的自由もあると言いますが、これは自ら決定する自由とでもいったものですから、コンドルセの言う「自分の判断」に似ています。
ルソーはこの一般的意思は熟議的理性を通して築かれるとしています。
自分の思いから離れて、かといって流されるのでもなく、「社会の思い」を想像すること。そのための手法が「熟議」です。
そして本書で知ったのが2013年の論文。クリスチャン・リスト、ロバート・ラスキン、ジェイムズ・フィシュキン、イアイン・マクリーンによるものです。
いわく。
熟議には論点を明確化して選択肢への人々の順位付けを単峰的にする作用がある。
単峰的とは、選択肢の中でどれかひとつに票が集まる、二つ山があるのではなくて集約されるという状況のことを指します。
その前段階として、熟議が「論点を明確化」する。
論点を明確化するとは、選択肢を評価する次元についての合意を生むということです。決める内容についての合意より前に、決める基準についての合意(いわゆるメタ合意)を生むということですね。
民主主義が機能するためには、熟議の成熟が欠かせません。そのことをあらためて確認したことでした。