<病>のスペクタクル―生権力の政治学

「病」のスペクタクル―生権力の政治学 生権力というのは、西欧の近代社会で行使されている権力を名づけた、フーコーによる造語だ。美馬達哉さんが第四章「<生>のテクノスコープ」で行っている解説を参考に、少しまとめておこう。

君主が絶対的だった封建社会では、人々は、従わなければ殺されるという「死の権力」に縛られていた。民主化が進んだ近代において、人々は「死の権力」から解放される。そして「命をたいせつにし、社会に奉仕する」という考え方が広まる。

でも、それもまた一種の権力ではないか。そうしたいわば「生権力」が支配的になっているのが、近代社会ではないか、というのが、フーコーの見立てだ。

命をたいせつにするという原初的な願いが、いかにして権力になったか、なっているかについては、それこそフーコーの著作を初めとして、社会学的な読み取りが必要だ。

ただ言えるのは、権力であるから、そこには政治的な思惑(権力者の狙い)が絡むということ。その思惑を解体しようとしたのが本書であり、だからこその「生権力の政治学」なのである。

健康を政治的な産物と考える思考法は、もしかすると慣れない考え方かもしれない。

でも、あなたはご存知だろうか、現在世の中に出回っている「メタボリック」という言葉が、もう何年も前に厚生労働省の書類の中に登場していたことを。

それは、それ以前の「早めの健康診断」路線を「生活習慣病予防」路線に変換する前触れだった。この路線に乗って、メディアがこぞって「メタボリック」を取り上げ、やがて世の中は「腹囲○センチ」と気にする人々があふれることになった。

こうして今、日本人の健康常識は「早めの健診」から「生活習慣の改善」に変わった。

これがどういうことかというと、「病」の意味さえ変わったということだ。「早めの健診」時代の「病」とは、健康な自分に気づかぬうちに訪れる存在であったのが、「生活習慣の改善」時代には、(不健康な生活習慣として)すでに自分を蝕みつつあるものになったのだから。

健康観、あるいは「病」というのは、このように行政的な思惑(医療費の削減だとか)や、それに乗っかるメディアの力によって組みかえられる。まさに政治的な産物であり、スペクタクルなのだ(ただし作為があるかどうかは別だ)。

このことを知っていると知らないとでは、健康番組を見る姿勢も変わってくるだろう。

多少専門性のある文章からなる本書を読むにあたっては、おおむね今述べたような見地に立った上で手にした方が良い(前述の話は本書には登場しないので念のため)。そうすれば、美馬さんが目指そうとしている「義務としての健康」への異議申し立てを深く汲み取れることだろう。

ぼくは、美馬さんがとろうとしているスタンスに好感を持った。本書は決して直接的に「健康」に役立つ書物ではない。しかし、日本を「健康」にする一歩にはなるだろう。

たとえば「SAAS」は、医学的な確定診断とは別に、政治的に広がったウィルスであるということ。エイズ治療薬の値段が、製薬会社や政治に左右されて推移したこと。「脳死」とはそもそもの定義レベルからして混乱していること。ストレスというのが現代において心理学化された概念であること。

そしてなにより、現代において病気でさえ、自己責任論で語られる時代になってしまったということ。

本書は、こうしてさまざまな<病>のスペクタクルを解体する。

最後に、本書冒頭で美馬さんが引いている「健康増進法」第二条を掲載する。それは、近代において「生権力」のある位置を象徴しているようにも思えるから。

国民は、健康な生活習慣の重要性に対する関心と理解を深め、生涯にわたって、自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努めなければならない。

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