笑いの現場―ひょうきん族前夜からM-1まで

笑いの現場―ひょうきん族前夜からM‐1まで (角川SSC新書) この本を手にとってみようと思ったのは、舞台『悩み多き者よ』を見たからだった。ラサール石井さんプロデュースのその公演は、たまたま人間ドックで同席した中年男3人が、互いが同級生(同い年)だと知ったことから交友を深める様子を描く。
理屈屋がいて、愛人を持つ人がいて、世話好きがいて。

それぞれに個性がありつつ、ときに意気投合し、ときにぶつかりあい、やがて青春時代にはまったフォークソングのコンサートを一緒に開催する。

笑いとペーソスにあふれた舞台。

舞台そのものは、楽しい芝居だったという感想にすぎない(もちろん、それはすごいことなんだけど)。

観終えた後、それをプロデュースしたラサール石井さんの視線が、心に残った。
自らの年月と重ね、ときに茶化し、ときに批評も交えて舞台にする。なんていうのだろう、それがすごくクールなことだと思えたのだ。

自らを客観視してこそ可能な、プロデュース。

彼が、笑いを分析している。本書を見かけたとき、あの舞台を通して感じた客観的な視点を思い出した。

きっとクールな、鋭い内容になっているのではないか。

そんな予感があった。

心の中には、コント赤信号時代の思い出が重なってもいた。

THE MANZAIブームの頃、漫才が並ぶ中でコントをやった彼らが、おしゃれに見えていたこと。その距離感を保っているのではないかという思いが、彼の分析力への期待につながった。

芸人自身が笑いを分析したといえば、枝雀を思い出す。緩急に笑いを見出した彼の姿勢。それは、とことん笑いそのものを追求した姿勢だった。

一方、本作は、副題のとおり、自らの歩みを重ねつつ、時代の流れを描いている。例えるなら、舞台袖からの目線だ。舞台に出ている登場人物を横から眺め、その向こうに見える客席の変化について書いた。そんな内容。笑いを描きつつ、時代を描いているのだ。

その移り変わりは次のようなものだ。

テレビ草創期、「ネタの時代」があった。テレビ局にとって、脚本も演出も演者がやってくれる漫才などの「ネタ」は好都合だった。三遊亭円楽やてんぷくトリオらが活躍した60年代第一次寄席ブームと、笑腹亭仁鶴や桂三枝らが活躍した70年代第二次寄席ブームが含まれる。

続いて、1980年代からのMANZAIブームをきっかけとした「再びネタの時代」がやってくる。漫才をブロードウェイ風に「おしゃれ」に飾る演出、時間の流れを編集する演出としてのお笑い枠の創出。この時期は、うそ臭い虚構ではなくリアルな「ネタ」に共感が集まった。

漫才ブームが終焉し、その場で作り上げる「ひょうきん族」の時代が入る。
そして1990年代は「空気の時代」。「笑っていいとも!」のように、その場の雰囲気自体が、「何かおもしろいことが進行している」という空気となって支配する時代。

その後、「電波少年」に代表されるリアクションの時代があり、2000年代、「またもネタの時代」。

これら笑いの流れは、ただお笑い界ではなく、それぞれの時代の空気を確かに反映していておもしろい。

また、M-1グランプリ審査の過程の紹介や、第2章として添えられたお笑い芸人の寸評は、笑いそのものに関わる人にとっても参考になることだろう。

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