逆に言えば従来のひきこもりの出口は、「就労」あるいは「対人関係」におかれていたということになるんだろうね。
そのあたりの社会的文脈を、石川良子さんはこんな風に振り返っている。
まず、ひきこもりが新聞にとりあげられるようになったのは1990年頃のこと。1980年代は「若者の無気力化」の延長でとりあげられていたにすぎなかったのが、1990年代に入って、「不登校児」のその後を考えるなかで「ひきこもり」という用語が作られ、注目されるようになったんだ。
この頃、斉藤環さんらが著作を通じて積極的に発言し、「ひきこもり」に形を与え、見守るだけではなく積極的に介入すべき(治療を目指すべき)ものだと訴えた。それはひきこもっていた当人たちにとっても大きな出来事だった。自分はひきこもりなんだ、治療すべき病気なんだって考えることができるようになったからね。
人にとって、自分を定義できる言葉を持つことは重要だ。
この頃の「ゴール」は、対人関係の回復におかれていた。
2000年に入って、「ひきこもり」と言われた人が起こした犯罪があって、「ひきこもり」についての報道が急増する。一方で、自助コミュニティが活性化するなどして、議論が深まっていった。
そこに、転機が訪れる。2004年、「ニート」という言葉が登場したんだ。「ひきこもり」はニートの一類型となり、報道の焦点からは退くものの、ゴールは「就労」にこそあると考えられるようになっていく。
こうした流れの中で、ひきこもりからの「回復」の基準が、ひきこもった当人の「葛藤の緩和・解消」や「充実感の獲得」といった内面的なところから、「対人関係の獲得」や「就労の達成」といった外面的なところに変化していった。
それじゃあいけない、と石川さんは言いたいんだ。
というのも今、「社会参加路線」が限界を露呈しているから。
それはまるでエンドレスなマラソンのようなもので、いつまでたっても「ひきこもり」から抜け出せないような感さえある。
だってそうだよね、今ひきこもっていないぼくたちだって、あらためてあなたの現在の働き方はゴールですかって尋ねられると、戸惑ってしまう。
石川さんは、身近なグループにおける活動・ヒアリングを踏まえて、時代の中で落としてきた「内面」を見直すことに、限界を克服する手立てを見ようとしている。
その努力のうち、ひきこもりを「状態」としてではなく「プロセス」とみようという考え方は重要だ。
そして、これは石川さんもあえてと断りつつだけれど、「回復」という明確なゴールを設定することにはちょっと距離をおきたいという。
ぼくはその思いに共鳴した。ひきこもり、あるいはニートの問題を考える時、ぜひみんなに読んで欲しい本だと思った。
石川さんの提示する「ゴール」はとらえにくいけれど、そのとらえにくさにこそ、真実があるような気がする。
ぼくたちは、言葉を通して世界を知る。
だから、自分の状態を言葉で定義できるのは、嬉しいことだ。言葉があることで現在を把握できる、現在を把握できるということは、自身にとっての過去や未来の物語を紡ぐことができるということでもある。
そういう、物語を紡ごうとするプロセス、自分の人生をひきうけようという覚悟こそが、生きづらさから逃れる道になる。ゴールは、いま・ここをひきうける自分の覚悟にこそあって、どこか遠いところにあるわけではないのだ。
自分を探している、多くの人たちにも届けたい。
私の高校時代は、それなりに学校に行き人付き合いもあったのですが、内面的に閉じている感じでした。先日TVで斎藤環さんと太田光さんの対談を見て、学校が合わないせいだと思っていたけれど、自分も一種の引きこもりだったのかと初めて気付きました。
私はその時期、ひたすら本を読んでいました(特に遠山啓さんの著作には内面から支えてもらったという実感がありました)。『言葉があったから』、弱かった自分でも生き延びられたような気がします。今引きこもっている人たちが本も読まないとすれば、だんだん言葉が使えなくなります。考えることも人に自分を伝える術もなく、混沌の中に沈んでいるのではないかと思うと気がかりです。
みけさん、ありがとうございます。
ほんとうに、言葉って不思議ですね。つかみどころ・とらえどころのなかったものに形を与え、過去から未来へとつないでくれる。ぼくも、それで何度か救われました。
これからも、言葉をたいせつにしていきたいと思います。