コロナ禍。
ステイ・ホームに伴い自由にできる時間が増えたと感じていらっしゃる人も多いのではないか。
暇はある。それを退屈と感じる人もいるだろう。気晴らしにゲームということで、関連企業の株価はあがっている。
全国的な自粛期間中、自殺者数が減ったという統計もあった。退屈であることは、必ずしも負のイメージばかりでとらえない方が良い。
気になりつつ読めていなかった本書を、このタイミングで読むことになったのは巡り合わせというしかない。
そもそも退屈って何だろう
人類はいつから退屈するようになったのだろう?
著者によれば、退屈の起源は定住にあるという。移動に伴う新しい環境への対応の必要が無くなり、人は退屈するようになった。
退屈は人間の進歩とともにある。
19世紀末に出版された消費社会論の先駆ともされる『有閑階級の理論』で、ヴェブレンは「顕示的閑暇」を見出している。
「有閑階級」において、やるべき仕事が無いこと=暇(閑)であること=が力の象徴になっているというのだ。
ところで「消費」というのは、必要なものを蕩尽する「浪費」と違って、必要と関係なく発生する。ことに現代における「消費」は、煩雑なモデルチェンジがそうであるように、退屈しのぎをしていると言える。
もっとも、退屈しのぎとして消費を楽しむためには、暮らしを無批判に受け入れていてはいけない。
今の自分を「疎外」し、もっと本来的な、もっと良い生活があると考える。その先に「消費」の楽しみが生まれる。
このあたりの「疎外」のとらえ方を、ヘーゲルからフォイエルバッハ、マルクスへと継承されていく疎外理論をふまえてじっくり考えてみたいが、いったん置く。
ハイデッカーによる退屈の三形式
さて、ここからいよいよ著者は退屈論の神髄に入っていく。
著者が紹介するのは、ハイデッカーによる退屈の三類型だ。簡単にまとめよう。
- 退屈の第一形式
電車を待つ時間が暇で退屈だというように、何かによって退屈している状態のこと。思い通りにならない「何か」のために空虚が広がって、時間がぐずついて進まない。 - 退屈の第二形式
パーティに出ているけれど退屈だというように、何かに際して退屈している状態のこと。気晴らしのつもりが気晴らしにならず自分の中に空虚が広がって、時間がぐずついている。 - 退屈の第三形式
なんとなく退屈だ。いわば全面的な空虚の中にいる状態。
こうして並べると、第三形式の退屈が究極のように思える。
そこで、この第三形式の退屈、全面的な空虚から整理してみよう。
何もないということは全面的な自由の中にいることだ。あらゆる可能性が開かれており、決断することで、次に進むことができる。
第三形式の退屈から逃れるためには、「決断」することだ。
決断した結果どうなるか。
何か行動しようと決断する。ところが「何か」は常にそこにあるわけではない。その結果、第一形式の退屈が生まれてしまう。
あるいは。
気晴らしをしようと決断する。だけど気晴らしは思ったほど気晴らしにならず、第二形式の退屈が生まれる。
第一形式から逃れるために「気晴らし」を求める流れもあるだろう。その結果、やはり第二形式の退屈が生まれる。
とすれば、結局のところ、第二形式の退屈こそ、われわれ人間の「退屈」の本質であるといえる。
気晴らしの中の退屈を生きる
われわれは日々、第二形式の退屈を生きている。
これは発見だ。
そしてそのことが、生きることに対してひとつの示唆をもたらしてくれる。
それは何か。
第二形式の退屈を逃れるにはどうすればいいだろう?
たとえばパーティで供される料理のレシピを想像したり、背景に流れている音楽を楽しんだり、そんな工夫をする。すると、パーティに際して感じる退屈を感じなくて済む。
もっともそれができるためには、料理や音楽を楽しむための「訓練」が必要だ。
仮にあなたが料理を趣味としていたり、音楽に造詣が深ければ、すなわち「訓練」を経ていれば、パーティの中に楽しみを見出すことができる。
ここで著者はいまひとつ、ユクスキュルによる「環世界」概念を持ち込んでいる。
環世界というのは、それぞれの生物が生きている世界のこと。
生物はそれぞれによって世界の受容の仕方が違う。だから、それぞれに生きている世界が違う。それぞれの「環世界」。
なるほどと思ったのは、人間と動物の大きな違いは、人間は動物より極めて高い環世界移動能力を持っているという指摘だ。
確かに、人間は同じ「世界」に直面していても、見方を変えることで違ったように生きることができる。
人間にとって、環世界を移動するために必要なのが、いま述べた「訓練」に基づく能力だ。世界の見方を、「訓練」を通して多様化する。
第二形式の退屈を生きるわれわれは、それから逃れるために自らを「訓練」し、新たな「環世界」を創造しなくてはならない。
ひとつの「環世界」に定住することなく、移動し続けること。
「悪の陳腐さ」に陥らないために
この結論は、ぼくにとって、ハンナ・アーレントの指摘と響き合うことで、深い意味をもたらすものとなった。
アーレントは、ナチスドイツによるユダヤ人への戦争犯罪の裁判を傍聴することを通して、犯罪者があまりに「普通」であることに衝撃を受け、「悪の陳腐さ」を見出している。
それはこういうことだ。
ユダヤ人迫害に加担したドイツ将校は、上からの命令を疑うことなく、巨大な悪意を抱かないうちに(何の思想も持たないなかで)、戦争犯罪を起こしている。日常的な「陳腐さ」の中で自分で考える能力を喪失していく、そこに悪が芽生えると。
そう、第二形式の退屈に際して、それを無批判に生きることは、この「陳腐さ」に陥る危険を呼ぶことになる。
だから、自分たちが「退屈な日常」にいることに自覚的になり、自ら訓練し、新しい環世界に移動することを、ぼくたちは怠ってはいけない。
「訓練」への着目は、人生100年時代、ライフシフトのために学び続けなくてはいけないという時代認識とも通じる。
退屈を考えることは、退屈どころか、現代においてとても重要な示唆を、人生に与えてくれたのだった。
『暇と退屈の倫理学 増補新版』國分功一郎,2015,太田出版