アメリカン・コミュニティ―国家と個人が交差する場所

アメリカン・コミュニティ―国家と個人が交差する場所 なんというのだろう、愛すべき本だ。いいよぉって、薦めたくなるような。

9つのアメリカの都市、そこにおけるコミュニティが紹介されている。どのレポートからも、アメリカの大気と人々の息遣いが感じられる。「物語」を重視して選んだという渡辺靖さんの視点のゆえだろう。

国家と個人が交差する場所。この副題を前にしばし、立ち止まる。

国家という大きな単位。ひとりひとりの個人。それらをつなぐ存在としての、コミュニティ。位置づけとしてはそうに違いない。

しかし、「交差する」とは何を意味しているのだろう。

終章に、ヒントがある。

渡辺さんは、アメリカのコミュニティをめぐる旅を通して、資本主義あるいは市場主義という大きな背骨を感じたという。

それはこういうことだ。

アメリカのコミュニティには、資本主義ないし市場主義に支えられているものがある。大手資本によって作られた街などが典型だ。一方で、宗教的なコミュニティのように、市場主義によって存在を脅かされているものもある。

そこには大きな違いがあるように思える。シンプルに見てしまえば、アメリカとは多様な人種、文化のるつぼだねと、それで終わってしまうだろう。

しかし、渡辺さんは言う。

大きな差異があるように思えるこれらコミュニティだけれど、実は資本主義/市場主義という背骨を共有している点で共通するのではないかと。単に資本主義に飲み込まれるという意味ではなく、産業技術を排斥するアーミッシュにみられるように、それに対抗するという共有の仕方も含めて。

つまり、アメリカの多様性とは、資本主義・市場主義にどのように対峙するかというレベルにおいて、確保されているのだ。

銃を擁護する人たちもいれば、銃規制を訴える人もいる。中絶に賛成する人もいれば反対する人もいる。進化論さえ、信じる人、信じない人がいる。いつも常に「カウンター・ディスコース(対抗言説)」が存在する国、アメリカ。

アメリカの個人主義は、トクヴィルが指摘するように民主主義と平等化の帰結というよりは、こうした多様性を前提とする社会統合の困難さから来ているのではないかというのが、渡辺さんの見立てだ。

そして、それゆえに人々は「大きな物語」を欲求する。

社会のまとめづらさゆえに、人々は自分たちをつなぐメタ言説を求める。たとえば「自由」や「平等」「民主主義」といった近代的理念。あるいは「アメリカン・ドリーム」であったり、ときに「テロとの戦い」であったり。

コミュニティも、そうではないか。研ぎ澄まされた個人主義ゆえに、自らの帰属する場所を求める心理が、絆を築く。

それはどこか、日本の課題ともオーバーラップする。もっとも、日本の「個人主義」は、多様性ゆえではなく、消費文化のゆえに浸透してしまったもの。

だから日本の場合は、はたしてコミュニティを、国家と個人が交差するところに位置づけられるかどうか、じっくりと考える必要があるだろう。

近代産業も受け入れて資金を確保するしなやかな原理主義のコミュニティ「ブルダホフ(ニューヨーク州メーブルリッジ)」。荒れたコミュニティを住民が再生したマサチューセッツ州サウス・ボストンの「ダドリー・ストリート・ネイバーフッド・イニシアティブ」。アリゾナ州サプライズの教会における大集会「メガチャーチ」。ディズニーがフロリダ州オーランドに創った古き良きアメリカ「セレブレーション」。モンタナ州ビッグ・ティンバーで体験型農業を提供したり(Montana Bunkhouses Working Ranch Vacations)、顔の見える農業(putting a face on agriculture)を訴えたりしている牧農家のネットワーク。
多様なコミュニティがある。そのいずれもが、地域と人に根ざしている。そのことの意味を、考えている。

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