自由に生きるとはどういうことか―戦後日本社会論

自由に生きるとはどういうことか―戦後日本社会編 (ちくま新書) 「戦後日本社会論」か。

じゃあ、まずは橋本努さんが戦後の日本社会をどのように論じているかをまとめてみよう。「はじめに」で、書籍の内容をほとんどすべてかいつまんでくれている。本書を手にとった人も、まずはそこをざっと読んでおくと理解が早いだろうね。

さて。まずは敗戦直後の1945年だ。この時代はいわば解放期。抑圧がなくなり、みんながふわっと解放される。あふれたのが生命そのものの自由、要するに「エロス」だったていう見立ては分かりやすいね。

もっとも、庶民はそうでも知識人はそうじゃない。自由を支えるには規律が必要だって考えて、探求していたわけだ。手法のひとつは、英国パブリックスクールのように制度を通して規律を身につけさせる考え方だね。もっとも、これは上からの押し付けになっちゃうけれど。

そこでもうひとつの手法が登場する。ロビンソン・クルーソーのように個人主義を原点に、自己を律していくという考え方だ。この場合は上からは押し付けられないけれど、下から律することが求められる。

結果として日本人は、両者の中間を選んだんだ。東洋の魔女を生んだスポーツ根性ものにみられる、下からのスパルタ教育でのしあがっていこうという。こうした風潮が奏功した結果が、高度成長期だった。

だけどスパルタ社会は若者の反抗を生むよね。それが1960年代後半。このとき若者たちはどうしたか。「あしたのジョー」的自由にあこがれたんだ。ぶっ壊して燃え尽きちゃえ! という精神だね。

だけど、ぶっ壊したあとどうするんだろう。

それが問われたのが70年代だ。その頃になると、自分たちを縛っているのが「会社」であり「校則」でありするのだと、明確になってくる。組織による息苦しい「鉄の檻」。そこから逃れるにはどうする?

方法はふたつある。ひとつは社会から逃れマイホームで小さな幸せを目指すこと。もうひとつは社会の網目をくぐってしなやかに遊ぶこと。こうして80年代にかけて、オタク文化とポストモダンな消費文化が爛熟する。

だけど90年代、バブルが崩壊してしまうと、そこにもう自由はないんだよね。
なぜって、みんなが信じていた「大きな物語」を失っちゃったから。自分たちを縛っていたものが崩壊しちゃうと、「○○から」自由になろうとしていた対象も失われ、ぼくたちは終末の茫漠とした風景に生きることになった。

その風景の中でぼくたちは、自由の対象を外ではなく内に求めようとした。「本当の自分」になることを自由と考えたんだね。みんなが自分探しに走り、ちっぽけな自分を肯定することを目指した。

で、21世紀はどうなるんだろう。それがどんな時代かはまだ見えない。ただ、橋本さんは「創造としての自由」に可能性を見ている。創造の自由とは、自分自身ができる試行錯誤の幅をできるだけ広げることだ。

この橋本さんの見立てはけっこうイケてるとぼくは思う。

本書で9.11やセカイ系について述べていないのはあえてそうしたのかな、そういう意味も含めて90年代以降は掘り下げが足りない気がするけれど、大きな流れは、橋本さんの見立てている方向じゃないかと思う。

ところで、これがおもしろいところなんだけれど、創造的であるためには、まったくの自由よりも制約があった方がいいんだよね、人間って。だから21世紀は、自由であるために、どのような「不自由」が必要かが問われる時代だと、ぼくは思っている。

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